Nです。

> > > 大きな科学的発見はもうなく、現在のそしてこれからの研究は
> > > 細かいところを詰める、パラダイムを補強するようなものだけだ。

> しかし今回は、物理学や宇宙論に関して言えば、
> 超弦理論のような統一理論を実験で検証するには、
> 周囲1000光年の加速器がいるので、
> 理論が実験で検証されて、合わない点があればさらに
> それを繕うために理論が発展して…、という
> 「経験科学」は終ってる。

実証主義をつらぬく事が、事実上不可能になってるって事だよね。

以前、僕も同じような事を考えた事があったよ。
客観的理論と言うのは、無限退行に陥るという事を認めてしまうと
物理学は、無限に理論を進める事ができるけど
研究の後継者は、その理論を理解する為に膨大な時間を要してしまう。
所が、人間の寿命は有限だから、どこかで、
「人の一生をかけても、理論を理解するための知識を習得する事が出来ない」
状態になってしまって、
そこで新たな理論が作られる事が「物理的に」不可能になる
ここが、真の「科学の限界」なのではないか?ってね。

> これが著者の言う「_経験科学としての_科学は終った」と。
> 物理に関しては、なんか説得されるけど、
>
> 物性なんかだと、実験的検証が可能な範囲で
> まーだまだわからないことはいっぱいある。
> だから、研究者のやることはいっぱいあって、これからも失業
> することはないんだけども、大きなパラダイムの転換は
> 起きないんじゃないかと言ってる。

物性の事は知らないけど、パラダイムを変更する様な
発見と言うのは、定義上予測不可能な訳だよね。
そんなに僕達は「知っている」のかな?

例えばタイムマシンを作れるような時間概念を
僕達は手にしてないよね。
それが「理論的に不可能である」という場合ですら
その理論における時間概念は固定されている訳で
「パラダイムの変化」というのは、そういう次元での
変化を意味してるんじゃないのかな?

> 進化生物学に関して、僕の感想をいうならば、
> ダーウィンの進化論は説明能力が高すぎるのではないか。
> #むしろ、反証不能なのかも

実際、ダーウィンの進化論は、
反証可能性の議論と同じぐらい「メタ」な議論だよね。

(ホパーは、最初ダーウィンの進化論を読んで
「反証不能だから科学ではない」という批判をしてたけど
ダーウィンの進化論を、「生物」を「理論」、「進化」を「発展」
に置き換えたら、自分の議論とまったく同じだという事に気がついて
後から「ダーウィンも自分も共に正しい」という主張をするように
なったという話を聞いた事がある。)

> いろいろとダーウィンの進化論ではダメだ!みたいな論が
> 出てきていますが、
....
> 金子・四方の多様化の理論は、
> もともと自己複製ー>遺伝子の変異ー>多様化
> というダーウィンのシナリオを崩して、
> 相互作用があったらもともと多様化ー>多様化

そういう議論は、どんどんするべきだろうね。
もっとも、僕の考えでは「多様化の起源」
という問題自体が内部観測的問題だと思うんだけどね。

> この多様かの元は、ランダムな突然変異ではなくカオスを内在的に
> 持っているから、というのが大事なんでしょうね。
> なんでランダムではだめで、カオスでなきゃならないか、
> っていうと、カオスだと多様性を生み出す不安定性と
> だいたいの再帰性の両方をもつからかな。

ランダムとカオスの違いと言うのは難しい問題だよね。
(実は、僕は全然わかってないよ。教えて頂戴。)

普通、クラス4的な振舞を実現させるためには
「内在的」というよりは境界に非線形項を持って来る手法の方が
多用されているのでは?(SOCとか...)

クラス4が直接的に「カオス」と言われている力学系から
生まれる訳じゃないって所が、結構ポイントのような気がするよ。

(直接的だったら、すっかり「生物」の問題は
解決されちゃった事になるだろうし、
これだけの議論をする余地すらない様な気がするよ。)

> サイバネティクスでのフィードバック ->
> edge of chaos ->
> 多様性と慨帰性
> と、どんどん動的な捉え方になっているのかも。
>
> もし複雑系がきちんと定着して、金子理論も定着したら
> そういう点を科学哲学で扱ってほしいな。
> 「世界を動的に捉える視点の発展」というテーマ。

僕も、郡司さんの議論は一言でいうと「運動論」だと思う。
「多様である」という言説が、状態に当てられている間は
運動については語ってないと思うよ。

> 僕も、自分が科学をやって行く上で、なーんも普遍的なもの
> がない、なんてニヒリズムに陥るわけにはいかない。
> #むしろ、僕の研究に言語観は、「今の地球上にある言語
> #だけの法則を求めてもだめで、もっと普遍的な
> #(言語的、なるもの、みたいな?)法則や原則や発展規則
> #がある、かも」っていう考えのもと、
> #virtual language world を作ろうとしている所がある
> #おおっぴらにこんなこと主張したら、狂ってる、
> #いや、悟ってる?

ここ数年、父親が「人間に特徴的なのはなにか?」
という質問をして来るんだ。
やはり、「神に愛されている人間」というものを
「特別な存在」として位置付けたいみたいだね。

少くても、科学の土俵の上では
「いかに人間は特別な存在ではないのか?」という事を
やっきになって探しているような気がする。

貨幣の問題を考えても、
猿や昆虫の世界における貨幣を議論する事で
貨幣を理解していく研究が進んで行くでしょう。

(北林の研究は、「道具」がいかに人間固有のものではないかを
議論している訳だからね。)

言語でも、状況はかわらないとおもう。

> とりあえず、今のところ考えなくてはならないのは、
> 観測行為を離れて、万人に認識できる世界はない(んじゃないの?)
> ということで、観測を考えた理論を考えるべき、ということかな。
> もともとはカントなのかな、これは。判断と反省。

カントに限らず、哲学はずっとそういう所に問題意識を持っていたと
思うよ。(永井さんの本でのデカルトの議論などを見ると...)

でも、問題を定式化したという意味では、
「カント的問題」という言い方は通用するだろうね。

(図と地の問題って訳です。)

さっきの、「いかに動的に捉えるか?」という話につながる
と思うんだけど、認識できる世界と認識する主体の関係自体を
考えている時にその両方を静的におさえた上で関係を
議論しているのではないかな?
(読んでないけど、ちまたの話をかじっている限りでは
そういう批判がなされているようだから。
でも、えてして「カントは本当はそういう事は言ってない」という話が
持ち上がりそうだから、読んでもいないカント批判は良くないよね。
言って見れば、一般に「カント的問題」と言われている事への批判と
でも、言っておきましょうか?)

> 経済学はまさにそうで、こないだ中島が書いてくれた
> ゲーム理論の考え方も、相手の行動の結果としての自分の行動の
> 結果としての相手の行動の…の予測の結果としての自分の行動
> という、自分の世界についての判断が相手の、あるいは、
> 市場の判断を通して、自分の世界の判断に跳ね返って来るところ。

そういう所を、どういうふうに考えるべきなのか?
という所が問題なんだよね。

戦略的状況に体するゲーム理論と観測思考型理論との
関係(位置付け)は、議論していくつもりです。
ちょっと待ってね。(そればっかり!)

> > これは、僕が経済学上で何を主張して行くのか?
> > を考える際に思う感想です。
>
> まさに、そうですね。
> ま、僕達のメイルのやりとりは、それを考えて行く
> プロセスの一つなわけですから。

そうだね。
未来を期待してやっていこう!

> でも「恐い」というのは。
> 今のまま新古典はでやっていったらそのうちできる
> と考えているんだったら恐いね。

そう考えてるんじゃないかな?
普通。(ハッシーは、そうは思わない?)

> でも、新古典はの人ってみーんな、講演の冒頭で
> 「完全に合理的な人なんていないんですけどね」とか
> いいわけしながら、結局はそういう新古典はの仮定を
> そのまま使うわけですよね。
> だから、新古典はのままじゃだめだ、っていうのは
> みんな思ってるんじゃないかな。
> でも、慣性がでかすぎて、急にはまがれない、
> せめて衝突安全ボディーを採用するとか (笑)

この頃、経済政策を考えると言う事と
医学の関係を考えているんだよ。

実際、「わくわくする」という事と研究とは切っても切れない事だと思う。
結局、「正しさ」というよりは、「面白さ」が
後進の研究者を産み育てるでしょう。
ある研究テーマの寿命というのは、「究極の理論」が与えられる事で
尽きる訳じゃなくて、後進の研究者がいなくなる事で尽きるのだと思うんだ。

それと同時に社会的役割というのも大きな点だと思うんだよね。
今の経済学が行っている経済政策の議論が、
医学と同様の貢献をしているのだろうか?
そして、観測思考型理論が、より大きな貢献を果たせるのだろうか?
というのは、僕が考えて行かないといけない問題なんだと思う。

経済学が、「こういう仮定をおくってことは...」と、自嘲していても
そういう仮定をおいて行った経済政策がそれなりに効果をあげていると
判断されているのであれば、「面白くなくても」やっていく事の
モチベーションになるんだよね。
それは、医学が「面白い」というよりも
目の前の患者さんをどうにかしなければという使命感を
モチベーションに、研究を続けているようにね。

> > > しかし、客観的な真実なんてあるのか?
> > > 科学的活動とはそんな真実を発見するものではなく、
> > > 世界の、ものの、ことの見方を作ってきたのではないか。
> > > それは、実は主観的で、客観的と思えるところまで
> > > 受け入れられた部分も、実は
> > > 社会的政治的に成立しているということさえある。
> >
> >
> > その辺は、humanMLやevolveで議論されてますよね。
>
> そうだね。柴谷篤弘がしきりに。
> その点はどう思う?
> 僕はけっこうあると思うんだけど。

僕もけっこうあると思う。
もっと言うと、「真実へのこだわり」って言う事自体
社会的なものじゃないのかな?

> でも、そういうことを考えて科学するのは良くないのかも。

基礎理論と応用理論の間を考えると、
ある程度、社会的な事を考えるのは、
逆に「いいこと」とも言えるんじゃないかな?
特に、医学なんかはね。

> そうだよね。今の文明社会に生まれ育ったことが、どれだけ
> 幸せなのかは難しいところ。
> 評価のしようもないので、また難しいわけですが (^^;

それこそ、評価の与え方によるからね。
まぁ、歯が痛い時に昔の日本人は、
歯が融けてなくなるまで、ずっと我慢してたんだって。
(もちろん、おまじないを唱えたり、歯の神様にお参りしたりは
してたけどね。)

辛いよね〜。

でも、こんなに働かないと生きていけないのも
辛すぎだな。

> クリフォード・ギアーツは、そういう含蓄の深いことを
> 他にも言ってて、それはバリ島の研究にかんする本で見つけました。
...
> (小泉潤二訳「ヌガラー19世紀バリの劇場国家」みすず書房 より)
> ---
>
> ひえー、訳が悪い〜

探してくれてありがとう。
本当に、複雑系の研究にばっちりあてはまるね。
いい事いう人だな〜。

僕は、こういう事をさらさら言えるようになるには
修行が足りないな〜。

(読むと分かるけど、自分の言葉では出てこないよ。
出て来るようになると、ものを書く作業も楽しくなるんだろうね。)


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