橋本です

> > 大きな科学的発見はもうなく、現在のそしてこれからの研究は
> > 細かいところを詰める、パラダイムを補強するようなものだけだ。
>
> この様な主張は、歴史的にいつでもされているものですよね。
> 文学批判でも、音楽評論でも同様の話題で議論され続けてるし。

そうなんですよね。
この本でも「前世紀末に「物理は終った」みたいなこと言われたけど、
それの繰り返しでしょ」という反論に対する反論をしている。
前回はその後、量子論、相対論という超巨大発展が物理には
あったわけです。

相対論での、質量や長さが変化するとか、空間が曲がってるとか、
量子論での、エネルギーなどがとびとびの値をとるとか、
物質が粒子でもあり波でもあって、
あっちにもこっちにも同時に存在して
どこに存在するかってのは確率的にしかわからない、
なーんていう、日常感覚からしたらすっごい奇妙なことが
理論から出てきたわけで、
はじめはみんな、「そんなばかなー」だったけども、
日食の時の太陽の重力レンズの効果が観察されて、
一般相対論の予測とピタッと合うとか、
量子論も陽子の質量とか、水素のエネルギー準位なんかが
実験で検証されたから、その理論を人々は受け入れた。

しかし今回は、物理学や宇宙論に関して言えば、
超弦理論のような統一理論を実験で検証するには、
周囲1000光年の加速器がいるので、
理論が実験で検証されて、合わない点があればさらに
それを繕うために理論が発展して…、という
「経験科学」は終ってる。
じゃあ理論の正しさはどこに求めるか、っていうと
理論の「美しさ」という非普遍的なものになるしかない。
しかし、超弦理論は10次元空間を必要としていて、
それを我々の住む4次元にコンパクト化することは
成功していない(すくなくても僕がマスターの頃は)。
10次元などというのは、天動説で惑星の運動を記述するために
もちだした周点円(中心がある同心円上をまわっている円)
に比べたら、同じくらい「美しくない」と著者は主張する。

これが著者の言う「_経験科学としての_科学は終った」と。
物理に関しては、なんか説得されるけど、

物性なんかだと、実験的検証が可能な範囲で
まーだまだわからないことはいっぱいある。
だから、研究者のやることはいっぱいあって、これからも失業
することはないんだけども、大きなパラダイムの転換は
起きないんじゃないかと言ってる。

それと、理論の予測が実験にピタッと合いすぎたのも不幸だと。
繕うすきがない。

> > 著者は、物理学、宇宙論、進化生物学、複雑系、科学哲学
>
> は、本当かな?と思ってしまいます。

進化生物学に関して、僕の感想をいうならば、
ダーウィンの進化論は説明能力が高すぎるのではないか。
#むしろ、反証不能なのかも
いろいろとダーウィンの進化論ではダメだ!みたいな論が
出てきていますが、どれも、ダーウィンだけでは「全て」を
説明することはできないというので、ネオ・ダーウィニズム
や総合説を誤解しているのもあるみたいだし。

こないだEVOLVEでも話題になってた「重力が生物を進化させた」
ってやつをNHKでちらっと見たときは
たしかに、環境変動が形態変化をひき起こすだろうけど、
その形態変化の元になるのは遺伝子の突然変異だろうから、
やっぱりダーウィンの手の平の内なんじゃない、と思った。
でも、「遺伝子変化なしで形態が変化する」という主張だったようで
そうだとすると、ダーウィンの外か?
とおもったら、総合説では、全ての変異が遺伝子変異から
っていう説明を求めないようですね。
この点は僕も誤解していました。

金子・四方の多様化の理論は、
もともと自己複製ー>遺伝子の変異ー>多様化
というダーウィンのシナリオを崩して、
相互作用があったらもともと多様化ー>多様化

この多様かの元は、ランダムな突然変異ではなくカオスを内在的に
持っているから、というのが大事なんでしょうね。
なんでランダムではだめで、カオスでなきゃならないか、
っていうと、カオスだと多様性を生み出す不安定性と
だいたいの再帰性の両方をもつからかな。

この多様性とだいたいの再帰性
#金子さんは『現代思想』では慨帰性という用語を作ってる
は、edge of chaos
#『科学の終焉』では、複雑系の中心概念用語だったが、
#今はもう誰も使わなくなった、と書かれてしまってる
と似ているきがするが、さらに「動的」な捉え方になっているのかな。

サイバネティクスでのフィードバック ->
edge of chaos ->
多様性と慨帰性
と、どんどん動的な捉え方になっているのかも。

もし複雑系がきちんと定着して、金子理論も定着したら
そういう点を科学哲学で扱ってほしいな。
「世界を動的に捉える視点の発展」というテーマ。

> > 「客観的な真実が存在し、科学を続けていくと、
> > 漸進的にそこへ到達する(あるいは、すべき)」というわけだ。
>
> という科学認識においても、宇宙論とか経済学とかを考えると
> まだまだ沢山の知見が堀おこされてない様な感じがします。

宇宙論はどうかな。
経済学はそうだとおもう。
ちゃんとした実情に合う理論なんてないからね。

> 実際、経済学のゲーム理論の隆盛は80年代に起きた事ですし
> それも静学的(ナッシュ均衡の研究)分析が主流ですから、
> ここから、動学的分析を進める事で
> 「客観的真理」を求めるという方向性で研究を続けても
> 人間社会への新たな知見
> (狭い形でパラダイムの変化と言っても言いような進展)
> が、期待されているのではないでしょうか?

これは難しいところですが、「客観的真理」についての
考え方の違いもあるかもしれません。

僕も、自分が科学をやって行く上で、なーんも普遍的なもの
がない、なんてニヒリズムに陥るわけにはいかない。
#むしろ、僕の研究に言語観は、「今の地球上にある言語
#だけの法則を求めてもだめで、もっと普遍的な
#(言語的、なるもの、みたいな?)法則や原則や発展規則
#がある、かも」っていう考えのもと、
#virtual language world を作ろうとしている所がある
#おおっぴらにこんなこと主張したら、狂ってる、
#いや、悟ってる?

とりあえず、今のところ考えなくてはならないのは、
観測行為を離れて、万人に認識できる世界はない(んじゃないの?)
ということで、観測を考えた理論を考えるべき、ということかな。
もともとはカントなのかな、これは。判断と反省。

経済学はまさにそうで、こないだ中島が書いてくれた
ゲーム理論の考え方も、相手の行動の結果としての自分の行動の
結果としての相手の行動の…の予測の結果としての自分の行動
という、自分の世界についての判断が相手の、あるいは、
市場の判断を通して、自分の世界の判断に跳ね返って来るところ。

> これは、僕が経済学上で何を主張して行くのか?
> を考える際に思う感想です。

まさに、そうですね。
ま、僕達のメイルのやりとりは、それを考えて行く
プロセスの一つなわけですから。

> (もっと、みんなが徹底的に絶望している=わくわくしていない
> なら、やりやすいだろうなとおもうってしまうのです。)

素粒子なんかは、本当にそういう状態かも。
最近はハッブル望遠鏡が深宇宙観測からいろいろとあたらしい
事実を発見しているから、わくわくしてるだろうけども。

> そういう成功を社会科学では「まだ」納めていないと言う
> 印象をみんながもっているのではないでしょうか?
>
> (そういう形で成功を納める事は出来ないと考えるのではなく、
> 「まだ」できていないと考えている事が「恐い」のですよ。)

僕が上でかいたことは、まさにそういうことかな。
でも「恐い」というのは。
今のまま新古典はでやっていったらそのうちできる
と考えているんだったら恐いね。
でも、新古典はの人ってみーんな、講演の冒頭で
「完全に合理的な人なんていないんですけどね」とか
いいわけしながら、結局はそういう新古典はの仮定を
そのまま使うわけですよね。
だから、新古典はのままじゃだめだ、っていうのは
みんな思ってるんじゃないかな。
でも、慣性がでかすぎて、急にはまがれない、
せめて衝突安全ボディーを採用するとか (笑)

> これは、ちょっと気になります。
>
> 僕達が読んでも面白いレベルでの議論がなされているのでしょうか?
> (つまり、おすすめですか?)

冒頭で書いたように、おすすめですよ。
そういうジャーナリスティックな不備な点は
そんなに目立つほどは無いです。
むしろ楽しんでしまうとかも手だけど。

> > しかし、客観的な真実なんてあるのか?
> > 科学的活動とはそんな真実を発見するものではなく、
> > 世界の、ものの、ことの見方を作ってきたのではないか。
> > それは、実は主観的で、客観的と思えるところまで
> > 受け入れられた部分も、実は
> > 社会的政治的に成立しているということさえある。
>
>
> その辺は、humanMLやevolveで議論されてますよね。

そうだね。柴谷篤弘がしきりに。
その点はどう思う?
僕はけっこうあると思うんだけど。
でも、そういうことを考えて科学するのは良くないのかも。

> それを、「科学は終った」という風に解釈する事は
> 僕も、飛躍だと思います。
> (会議の内容から、作者が「科学は終った」という
> 所だけどとりだしても違和感がないと判断したとしても
> おかしくはないですけどね。)

著者は、そういう主張にしています。
しかし、著者は科学が大好きで、がんばって欲しい、という
気持ちをこめて、戦略的にそういう主張を過激にしている
という気がする。

> (さしあたって、素朴実在論&要素還元主義の立場から
> 自分を再批判できるような心を持って置きたいと言う感じかな?)

そうですね。
それはちゃんと考えないといけないですね。

> > コイサンマンが幸せだが無知だということにたいして、
> > 「知識のどこがいったいそんなにえらいんだい?」
>
> 僕もいつもそう思ってる。

そうだよね。今の文明社会に生まれ育ったことが、どれだけ
幸せなのかは難しいところ。
評価のしようもないので、また難しいわけですが (^^;

> ただ、そういう文明のおかげで馬鹿な事をしているだけで
> 一生を送れるような余裕が社会にはある訳で、
> そういう事には感謝をしないといけないと思ってる。

むむむ、まあ自分の楽しみとしての科学、でしょうか。
そういう楽しみ方を知っている、という意味では
すこし幸せなのかもしれないね。

> これは、科学のあり方というよりは、
> 人生のあり方を言っているね。
> 含蓄の深い言葉です。

クリフォード・ギアーツは、そういう含蓄の深いことを
他にも言ってて、それはバリ島の研究にかんする本で見つけました。
バリ島文化研究の難しさについて言ってるのですが、
まさに、複雑系研究の難しさと同じ!と思って、OHPに
したこともあるんだ(笑)

10分ほど探して、ようやく見つかった。

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宮廷儀礼についてばかりでなく広く何かについても言えることであるが、バリの人々は物事の究極のあり方についての、またそれに基づく人々の行動のあり方についてのもっとも包括的な諸観念を、言説を通じて理解される明瞭な「信仰」の秩序だった体系とするよりは、無媒介に理解される感覚的象徴の形とした。ーすなわち、彫刻、花、舞踏、旋律、しぐさ、歌、飾り、寺院、姿勢、仮面が作り上げる語彙の形にしたのである。こうした表現手段がとられているために、それらの諸観念を要約するにはどうしても無理がある。ポイエシス(「創出」)という広い意味で言えば、ポエトリー(詩的作品)とは要するにそこに意味されているもののことであるが、それと同じようにバリにおいては意味内容の表現媒体に深く食い込んでいるから、それを一連の命題に言い換えようとすると、解釈につきものの過ちを二つながら犯す危険がある。つまりそこに現実にあるものより多くを見る危険と、豊かな個別の意味を味気ない一般論の羅列に還元するという危険である。

しかしどんな困難や危険があったとしても解釈の作業に取りかからない限りただ面白不思議がるだけにとどまることになる。

(小泉潤二訳「ヌガラー19世紀バリの劇場国家」みすず書房 より)
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ひえー、訳が悪い〜


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