統計的文法理論と構成的意味論に基づく音楽理解の計算モデル

オルガン小曲集の解析

はじめに

音楽情報処理の研究において、整備されたデータセットの果たす役割は大きく、なかでもMusic21 toolkitで利用可能なJ.S. バッハの4声コラールデータセット[1]は計算機を用いた楽曲生成や楽曲分析などの研究においてもっとも広く用いられているもののひとつである。
しかしながら、この4声コラールはコラール旋律に簡素に和声付けを行ったものであり、これ単独では装飾の多様性という音楽に特有な問題が十分に扱われないままとなっている。

J.S. バッハのオルガン小曲集はコラール旋律をもとにした45曲からなるオルガン独奏用の作品集である。
同じコラールをテーマとしているにもかかわらず、4声体のものと比較すると、豊かで多様性に富む装飾が施されていることがわかる。
4声コラールでの研究の蓄積を生かしつつ、音楽に本質的な表層の多様性の問題を扱うことを想定したとき、もっとも直接的な発展となるであろうこの曲集を、計算機で処理可能なMusicXMLの形式に整備した(具体的な整備方法はB節を参照)。

さらに、本曲集は豊かな表現をその本質としており、その解釈は標準的な教科書の範囲を超えるものである。
そこで、計算機による応用研究の考察や評価に役立つよう、オルガン専門家による和声分析の参考事例集を作成いただいた。
具体的な分析の方向性、留意点については、C節を参照されたい。

MusicXMLデータの構築

コンピュータを用いた研究に使用しやすいように、MusicXMLフォーマットによる楽譜の準備を行った。
その作成方法は以下の通りである。

まず初めに、国際楽譜ライブラリープロジェクト(International Music Score Library Project (IMSLP) / Petrucci Music Library) からPDFの楽譜を入手した。
具体的には、同ライブラリによって提供されている、Pierre Gouin編集、Montréal: Les Éditions Outremontaises(2008)によるJ.S.Bachオルガン小曲集全曲の楽譜を取得した( Licence: Creative Commons Attribution Non-commercial 3.0 )。

次に、取得したPDF楽譜を、MuseScoreで提供されているAudiverisを用いたサービスを用いてMusicXML形式に自動変換した。

そして、自動変換されたMusicXMLに含まれるエラーを人手により修正し、修正結果のダブルチェックを行った。
このとき、コンピュータでの処理における利便性のため、同じ声部はできる限りMusicXML上で同じ”Voice”に配置されること、また、譜表を跨ぐ記譜を行わないよう、調整を行った。
さらに、音価は実際の長さに従うよう修正した。
これは、元の楽譜では人間にとっての読みやすさを考慮して、付点が省略されている場合があるためである。

[1] Cuthbert MS, Ariza C, music21: a toolkit for computer-aided musicology and sym-bolic music data, In: Proceedings of the 11th International Society for Music Information Retrieval Conference (2010)

和声分析参考事例集の構築と留意点

本取組の趣旨は、J. S. バッハのオルガン小曲集 (Orgelbüchlein, BWV599-BWV644) を調性音楽に慣れ親しんだ現代人の耳で聞いたときに、どのように調性を聞き取るか、また何調のどの和音が響いていると捉えると妥当かについての一つの目安を提供することで、計算機による調性判断、和声分析の一助とすることを目指すものである。

バッハの音楽、特に教会旋法で作曲された曲も数多く含まれる本曲集を完全に調性音楽の範疇で捉えられるとはもとより考えていない。むしろ作曲当時に概念として確立していなかった機能和声の枠組みで分析するという前提自体に無理があるとも言える。とはいえ、本曲集中には1. 完全に調性音楽として捉えることができるもの、2. 断片的にも調性が感知できるもの、3. 感知がすることが難しいものそれぞれが存在している。今回の分析ではあえて機能和声の枠組みのみを用いた表現を行うことで、現代人がどのように情報を処理することで調性を感知しているのかを考察するにあたって有用な情報が提供されるものと考える。

分析は日頃即興音楽を実践している現役のオルガニスト有志グループ(即興工房TOKYO、主宰:浅井寛子)らにより行われた。分析結果は音楽学者による解釈でない一方で、演奏家が耳で音を実際に聞いたときにどう感じるかという、より実務に即した解釈になっているといえる。

本分析をご利用いただくにあたっての留意点を以下に示す。

  • 大前提として、この分析結果は一つの解釈であり、唯一の解であることを主張するものではない。言語の構文解析の際にしばしば複数の解釈が成り立つのと同様に、一つの音の流れに対して複数の解釈が往々にして発生しうる。
  • 何調のどの和音と捉えると妥当か、ということを考えることが主眼であるため、借用和音(例えばIV度調のV度和音である場合はIV/Vと記載している)として表現するか別の調の和音として表現するかについては(結局同じ和音を意味することから)厳密に捉えていない。1、2音程度の極めて短い他調和音の利用は借用表現を行っていることが多い。
  • ローマ数字は全て大文字で表現しており、大文字が長三和音、小文字が短三和音という使い分けは行っていない。何調の何度かを表現しているため、特段の問題は生じていないという理解である。短調で生じる長三和音のIV度やI度は右にプラス記号を付しており、長調で稀に生じる同主短調の和音の利用はマイナス記号を付している。
  • V度とVII度の利用の違いについて:五度下降等のゼクエンツで生じるVIIはVIIとして取り扱っており、それ以外の属和音はV度と捉えている。
  • 調性はドイツ語表記を採用している。大文字は長調、小文字は短調である。特に注意が必要なのはBであり、B/bは英名のB♭ Major/Minorを指す。B♮ Major/MinorはH/hで表現される。
  • 調性の変わり目となる部分は転調の発生箇所を主張するものではない。厳密に転調を定義するならばカデンツの存在が必要であるが、曲中に一時的に他調の和音が使われることはありうることである。それを転調と捉えるか否かについての議論は本取組の対象外であり、何調の何度と捉えると自然かという当初の趣旨に合致するように記号を付しているものである。
  • ある和音記号の有効範囲は次の和音記号が出現するまでの間となる。
  • 記号を付しつつも機能が希薄と考えられる場所はローマ数字にカッコが付されている。また、分析困難な和音については()と表記している。
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