場所: エジンバラ

テーマ: 文明が発酵して文化となる

date: 2002.8

スコットランドの首都であること、啓蒙思想の中心地であること、「ハリー・ポッター」の舞台であること、くらいの予備知識で出かけた。

主な目的は エジンバラ大学にある e-Science Institute の訪問。週末にdevelopmental robotics 関係の会議にも出席。普通、8月のヨーロッパの街というとバカンスで閑散としているものだが、ここは街全体で演劇や音楽などパフォーマンスアートの祭典「エジンバラ・フェスティバル」が開催され、中心部は大賑わいである。そういえば、ローワン・アトキンソン(Mr. Bean の人)もエジンバラ・フェスティバルで注目されたとあったが、こんなに大きなものだとは知らなかった。中心部の繁華街、Royal Mile は歩行者天国となり、大道芸(自分の出し物のビラ配りも含む)も一杯である。最も British だと思ったのが、「プール監視員」。要は、高いところから笛を吹いて通りすがりの人に突っ込みをいれているのである。「プールで走るな!」 「ほら、そこの人、子供を肩車しちゃ駄目。バックドロップ禁止だ!」 とか。

それはさておき、エジンバラの中心は峡谷であった。氷河に削られた峡谷の中島になっている部分が、スコットランドの中心であったエジンバラ城である。市街地はそれを挟んで両側に展開している。エジンバラ大学は、街中に分散していると思っていたが、緩い境界をなしてキャンパスをなしていた。目的の e-Science Institute は、古い教会をかなり大幅に改造した建物であった。

e-Science Institute 所長の Atkinson 氏に昼食をごちそうになった。途中、話題が発明について触れた。蒸気機関のワット、蒸気機関車のスティーブンソン(多分トレビシックも)、電話のベル、ペニシリンにクローン羊ドリー。ここはスコットランド啓蒙思想の中心地、とくにアルファベット順に並べた百科事典の発祥の地であることは知っていたが、かなりの重要な発明が集中している。e-Science プロジェクトの一人にもらった名刺には、所在が James Clark Maxwell building となっていた。なんかくやしい。

発明家があふれるこの国は、案外保守的である。これは前から不思議だったのだが、発明の芽を育むには、時代を経て生き残ったものの変遷をみて、先人の知恵を生かすことが重要であるのかもしれないと思った。スコットランドに限らず、英国のデザインは時に他の追随を許さないほど先鋭的である。とくにスポーツカーなど。 実際、古いものを使い続けるということは時代に逆行しながら生きて行くことになるので、頭を使わねばならない。工夫の連続である。電気も上下水道も(浴室も!)なかった建物に、それらの管を引こうとすると、何が必要か。それぞれの性質を知り、優先順位を決めて3次元的な構造を頭に描いて、予算と相談して。。と頭の使い通しである。壊すのは簡単であるが、今は手に入りにくい材料や手の込んだ装飾は、2度と戻らない。

大概の建物は何度も改装が行われているために、気がつくと知恵の塊となっているはずである。振り返って古いものが急速に減りつつある日本を思うと、将来が危ぶまれる。文明と文化の区別にスペースを費やす気はないが、文明は文化に転換しうる。技術が集積して、時間をかけて発酵すると、それは文明である。記憶でもある。記憶を失ったら、文化も知恵も消滅する。 いや、冬でも冷たいシャワーや斜めの床が恋しいなんてことはないけども、記憶のない街には住みたくない、ということだけは言える。それは価値観の問題ではあるが、積み上げてきたものが壊されるのを見るのは、耐えられない。


場所: ジュネーブ

テーマ: 都市に必要な大きさ

date: 1999

ジュネーブは、たまたま寄ったに過ぎない。会議の後休暇を取ってアルプスの山歩きをして、翌日のフライトに備えるために一泊しただけである。

列車を乗り継いで、ジュネーブ駅に着いたのはもう午後である。それからホテルを探して、散歩をはじめる。歴史ある町のはずなのに、駅側は意外と新しい。戦争で焼けてもいないはずなのに、と首を傾げつつ、ローヌ川の河口を渡って、丘になっている辺りは結構古い。うまい具合に歴史博物館に行き当たったので、銅版画の古地図を眺める。果たして、古の当地で町になっているのは丘とその周辺(とくにローヌ川河口)だけであった。

アムステルダムも旧市街を越えて拡大が起きるのは20世紀のことであるし、都市の急速な拡大は日本では戦後であるし、ヨーロッパでも思いの外最近のことである。スイスの繁栄は近代以降ということを考えると、まあそんなものかもしれない。

本やCDなどをみたあと適当に散歩し、現地通貨を入手しようと銀行の支店に入る。支店は閉まっていたが、ATMがあるだろうと中にはいると、ガラス越しに豪華なラウンジのようなカウンターが目に入り、場違いな自分に気づきあわてて外に出る。周囲には銀行の支店が並んでおり、どれも豪華そうな構えである。有名なジュネーブの銀行街に迷い込んでしまったわけであるが、土地の面積からすると大手町の銀行街の1ブロックにも満たない、小さな領域である。それが、この世界中に有名なスイスの銀行街なのである。

プライベートバンキングなどには縁がないので早々に立ち去って街頭のATMを利用したのであるが、考えてみれば、いつから都市の施設が巨大化しはじめたのだろう。インフラストラクチャーや人の集まる施設は昔から巨大だが、人が働く場所は、意外に小さい。必要以上にスペースやモノを欲しがり出すと、際限なくスペースが肥大化してしまうのかもしれない。

システムというのは自制がないと、簡単に内側から崩壊してしまうものなのかもしれない。いや、現代のジュネーブは充分外に拡張されているのだけれども、それでも適度な大きさに抑えられているはずである。これが正しいかどうかは、次回のお楽しみ。

宿をチェックアウトするとき、フロントの男と少し話をした。 「どうでした、この町は」 「ちょっと寄っただけなんだけど、結構楽しめそうだね」 「そうでしょう。私もね、昔ここにはちょっと寄るだけのつもりだったんですよ。それが、なぜかずっと居続けてしまいまして。」 「あらら」 「なにしろ、私の若い頃ですから、若者たちには活気があって、正しいことをしていましたしね」 そういう生き方もいいかもしれない。と思ったのは別の話。


場所: ボン

テーマ: 都市に必要な大きさ

date: 2002

ヨーロッパに行き始めたのは、もちろん首都がベルリンになってからなのであるが、ボンは西独の首都であった。だから、それなりの風格といったものを持っていてしかるべき、と思っていたのだが、列車を降りたら金沢駅よりもこじんまりとしているのであった。駅前広場もかなり狭く、ライン川沿いの宿まで歩くと、もう町外れの様相である。居酒屋で夕食をとるも、元首都にしては今ひとつ英語の通じが悪い。

町中を歩き回る限り、首都らしさの痕跡すら見当たらず、不思議に思っていたのだが、用務を終えて、移動日には余裕があったので、探索に出かけることにした。要はちゃんとガイドブックを読んだだけであるが、町外れに行政地区があることがわかり、歩いていってみたのである。

案外近かった。高層建築の一つあるわけでもない、それは休日だったので当然とはいえ、あまりにも静かな地区で、その地区も信じがたいほど狭いのであった。連邦制とはいえ、中枢がこんなに小さなところで足りるのか?モニュメントらしきものもないし。

では、中央集権の日本ではどうか、帰国してから調べてみた。桜田門の警視庁から霞ヶ関ビルの手前の会計検査院まで、国会議事堂をのぞくと 1kmx500m の長方形にすっぽり収まってしまうのである。迎賓館のある赤坂御用地の敷地より少し小さいくらいである。

会議場やセレモニー用の施設をのぞけば、確かに中枢は人の集まりであるから、それほどの面積を必要とはしないのかもしれない。しかし、大使館などどうしても独立した施設が必要な場合なども多いはずで、結局結構な大きさに肥大するものではなかったろうか?実をいうと未だに納得できていないのである。


場所: ボストン

テーマ: ところで、ボストンバッグって何?

date: 1998年、2003年

ボストンには2度行ったことがある。アメリカをそんなに旅したわけではないが、ヨーロッパ的な雰囲気を感じさせる唯一の都市であると思う。

ボストンは、はっきりいって洗練された街ではない。アメリカの頭脳が集まる街であるから、という期待が上回っていたからかもしれない。とはいえ、結構楽しいところである。というのは後からわかってきた。

ハーバード、MIT、ボストン大をはじめとして多数の大学がボストンとその周辺に集中している。では延々と学生相手の街が続いているのかというと、そうでもない。ハーバードの近辺は学生街であるが、MITやボストン大は町中にある。小さなダウンタウンは、港町、中華街、劇場街、高級店街と、区分けされているようである。その割に公園が広いところが、いい雰囲気である。ただし、高級品店街以外は、あまり洒落てるとは言えない。なお、ドラマ Ally McBeal の事務所という設定のビルは結構町中にあった。

学生が多いというと巨大な書店を期待してしまうが、日本の基準からするとせいぜい中規模の書店しかない。とはいえ、ハーバード大の書店では建築関係の本を買い込んでしまう。

ボストンは緯度的に札幌と似ていて、雪はそれほど降らないものの、冬はそれなりに寒い。他に似ている点としては蟹ならぬ伊勢エビが名物で、しかもそんなに高くないということである。他には外壁が羽目板になっている家が多いが、これは北海道開拓当時にニューイングランドから大工が来日したためらしい。北大農場に現存するモデルバーンが、この代表例である(北大にいた頃はよくその脇を通ったものである)。

脱線ついでにいうと、北大のすぐそばにあったパン屋が「ボストンベイク」という屋号であった。ではボストンでおいしいパンが見つかったかというと、そうでもない。強いていうと、「Au bon Pain」といういまや全米に展開しているサンドイッチ屋はハーバードの卒業生が興したベンチャーである。悪くないが、飛び抜けて美味しいわけでもない。あまり都心には「ボストン」の名を冠した店が無いというのは、気のせいだろうか。

話を戻そう。ボストンというと、公共交通である。トラムだか地下鉄だかよくわからないグリーンラインやら、トロリーバスなどというかなりレアなものまであって、車社会、アメリカのイメージがかなり変わったのも確かである。ここなら、車無しでも何とかなると思っていたら、なるほど「Carless in Boston」なる本まで売られていた。派手さはないのだけれども、確かに活気があるのは、ボストンの魅力である。多分、コミュニケーションの密度が高いのではないだろうか。中華街があるのも、その一因かもしれない。大人数で必死になって掻き込む中華料理は、いいものである。

滞在も終わりに近づいてきた頃、会議が終わって、町に出ようと思ったら、そこで知り合ったアメリカ人と出くわした。待ち合わせらしく、小さな花束を片手に。「お前に全然違う2つの質問があったんだけどさ。一つはお前の発表した陶芸の練るやつについて。そしてもう一つは、お好み焼きについてなんだ。」時間があったので、ちょっとだけ答えてやろうとしたら、白い車が前に止まり、その男は乗り込んでいった。

そのままダウンタウンまで歩いてゆこうとしたら、たまたまレッドソックスの試合にぶつかり、渋滞はないものの地上は大混雑になった。こんな町中に球場があるとは知らなかったが、阪神ファンとも比喩される彼らは、いい感じに盛り上がっていた。

記憶を掘り出してみても、なぜかとりとめもないのであるが、それがアメリカの大都市なのかもしれない。そうそう、ボストンバッグは、見たかどうか記憶がない。


場所: ローマ

テーマ: 偉大なる「何か」

date: 2003

ローマは、思ったよりも小さい都市であった。7つの丘をもつ旧市街から、あまり外へとは拡大していない。だから、ローマの街に遺跡があるのではなく、遺跡の中に街があるといったほうが正しい。

ローマ帝国が滅んだあとやってきた人々は、異教徒の作品には冷たく、ルネサンスに至るまで価値を見いださなかったという。その間、約1000年。ローマ人の築いた巨大な建物は、建築資材のための石切り場になっていたわけで、要するに化石資源と同じ扱いだったわけである。

では、それら遺跡は人々の目につかないところにあるのかというと、そんなことはなく、むしろ目立っている。テヴェレ川に面している要塞は、17世紀あたりのものかと思ったら、ハドリアヌス帝廟を改造したものであった。日本だと仁徳天皇陵に築城するようなものなんだろうか。

さて、中世の間、明らかに目についていたはずのローマ時代の建築物は、一体人々の眼にどう映っていたのだろうか。もちろん人は見ようとしないものは眼に入らないものであるから、多分「そこにある大きい何か」としてしか見ていなかったと思うのだけれど。

では、「神殿」が「何か」に変わるのにはどれだけの歳月が必要なのかと考えてみると答えは簡単で、知っている人がいなくなった瞬間に、離散的に変わるわけである。例えばローマ人が去って、異民族が占領したその瞬間。

もちろん、似たようなことは現代でも起こりうるわけで、蔵から思いもかけないお宝が発掘されるのは、内容を把握している人がいなくなった瞬間に仕込まれるわけである。使う人がいなくなれば、蔵から発掘された道具が何であったかは、すでに考古学の領域である。

実家には桐の書類棚があるが、文具類の道具箱として使われていた。それは、実はその昔親類が銀行を経営していたときの書類棚で、銀行は昭和恐慌で破綻したが、その棚は父か祖父が引き取ったものらしい。金融機関の経営破綻のニュースを聞くたびに、その棚を思い出すのである。

では、「何か」が「宝物」に変わる瞬間は? これは徐々にかも知れない。

それにしても、ローマは「何か」が満ちあふれているわけで、盲点だらけ、という状態であったのだろうか。神殿を利用して、フロアを刻んで家にしてしまったような建物もある。その住民にとっては、盲点に住んでいるようなものであったというか。


場所: ニューヨーク

テーマ: ここになぜお好み焼き屋が無いのか

date:

ニューヨークには、世界中の食べ物があっても不思議ではない。人種のるつぼである。屋台もあるし、日本でのコンビニと同じくらい多いデリのテイクアウトもある。 もちろん日本食もある。しかし、無いものがある。それは、お好み焼きの屋台である。

鉄板焼きを除いてインターナショナルな日本食というと、まずラーメンではないかと思う。ロンドンにも、ロッテルダムにもあった。確かに、コシのある麺は日本の誇るべき発明なのだか、麺類は腹にこたえない。

では、なにがインターナショナルになりうるかというと、それはお好み焼きであると考える。実をいうと、それを教えてくれたのは、オランダ滞在時のハンガリー人のハウスメイトであった。彼女が国に帰るというとき、日本食をリクエストされた。

「ええと、あのパンケーキ、なんて言ったっけ、甘くなくて肉とか入っているやつ?」お好み焼きというのは、たしかに一種のパンケーキな訳である。

当時、実家を出て半年もたたず、料理も全くの初心者で、人に料理を出すなどということは、初めての経験であった。しかも、彼女の farewell party である。お好み焼きが好物というわけでもなく、広島とも大阪とも無関係であったわけで、お好み焼きのレシピを調べ、直前に訪問してきた友人に天の助けとばかりお好み焼き粉を空輸してもらい、最低限の格好がつくようにした。

それだけで充分かと言うと、そうではなく落とし穴満載なのがアウェイ・ゲームの醍醐味である。まず、薄切りの肉というものは存在しない。キャベツも2種類あって、白い方は駄目。青海苔、鰹節なし。オタフクソースなどのぞむべくも無くオイスターソースくらいしか見当たらない。気分は「大使閣下の料理人」である。

ともかく、急造料理人の作ったお好み焼きと肉ジャガ(これも彼の地で覚えた)で、なんとか喜んでもらえたわけであった。そういえば、ラーメンも中国人が日本で発明して全国に広まった料理である。アウェイ・ゲームはそのくらいスリリングであるということを忘れてはならない。

パンケーキはヨーロッパでは広汎に見られる。フランスのクレープ、オランダの panekoek 、ハンガリーではなんと言うか聞きそびれた。春先のカーニバル (謝肉祭) の後、食べられるものはパンケーキくらいだったと言うが、要するに肉を絶ったわけではなく、肉を食い尽くした後、最初の収穫まで食いつなぐサバイバル・フードであったようである。内陸部ほどなじみ深い食べ物ではないかと思う。あまり高級なイメージではないにせよ、下地はあるはずである。さらにキャベツの歯ごたえは、未知の領域ではなかろうか。

北米ではホットケーキしかないかもしれないが、考えてみれば中南米のトルティーヤに野菜と肉を挟んだピタサンドの親戚と考えられなくもない。

ソーセージ類は旨かったアメリカではあるが、ヤンキースタジアムのソーセージはあまりいただけなかった。ここになぜお好み焼き屋が無いのかと考えつつ、野球を観戦していたのである。試合はホームのヤンキースが制した。

なお、実行に移して失敗しても当方は一切関知しない。


場所: ベネチア

テーマ: 都市に必要な大きさ

date:

地中海の強国としての役目はずいぶん前に終えたものの、観光の名所としては昔から変わらず地中海の要である。

陸上交通機関が使えるのは、イタリア本土から長い橋を超えてすぐの鉄道駅およびバスターミナルのローマ広場までで、あとは徒歩か船を利用するしかない。その道すら、場所によっては人がやっとすれ違えるくらいの幅である。しかも、その道はたんなる脇道ではなく、サンマルコ寺院とリアルト橋を経由してローマ広場に向かうという、いわばメインストリートだったりする。

歩こうと思えば全域を歩けてしまう人工島が、いわば世界の中心だったわけである。どれだけの情報と物資が集約されていたか、どうも感覚が追いつかない。しかし、重要なことは、数百年にわたってその大きさが変わっていなかったことである。近代では本土に領土をもっていたにせよ、その中枢は島であり続けたはずである。

都市の拡大が急激になったのは20世紀からであるが、その規模に応じて魅力が増しているかというと、逆に希薄になってゆくように思える。もちろん人口増が大きく影響していることもある。スプロール化とか無意味な拡大が普通になってしまった現在、もう一度適度な密度を考え直さなくてはならない。それと、死んだ空間と余裕のある空間とは違うということも。


場所: ミラノ

テーマ: ミラノ名物

date: 2004.8

ミラノ名物といえば、最後の晩餐とリゾットとカツレツとスリである。

真夏のミラノは、多くの店がバカンスで閉まっており、観光名所以外は閑散としたものである。最大の名所である大聖堂は修復工事中で、ファサードが完全に足場に覆われていた。

有名なVittorio Emanuelle のアーケ−ドは、高級品店ばかり並んでいるのかと思ったらそうでもなかった、というのが感心した。

最後の晩餐は、幸いにもネットで予約できるエージェントを発見したので、助かった。ミラノの旧市街のはずれにある修道院の食堂に描かれた絵だが、いまや飲食などもってのほかで、エアロックを抜けて初めて目にすることが出来るようになっている。

ルネサンスの華の一つとして、遠近法的に

リゾットはバターがきつくてあまり感心しなかった。

スリには、地下鉄で遭遇した。列車に乗り込んだとたん、一人の男が鍵を落とし、身をかがめたと思ったら、何を思ったかこちらのズボンの裾を引っ張って押さえる。自由を奪われて気味が悪いので、いったん出ようと思ったら、もう一人の男がポケットに張り付いているのに気がついた。一度降りたところで完全に財布が抜かれたのがわかり、再度列車に乗り込む。すると、その男が財布を隠そうとする。

「おい」とも「hey」ともつかない大声で財布を隠したあたりに指を指して威嚇した。何を考えたのか、くだんの男は財布を放り出して相棒とともにまだ開いていたドアから脱出した。

ドアが閉まったところで、点検してみると財布にはまだ現金が入っていた。こういう間抜けさは感心しない。

カツレツは食べなかったが、感心できるんだろうか。


場所: クリーブランド

テーマ: minimum requirement

date: 2005.8

クリーブランドというと、野球のインディアンズくらいしかイメージがわかないのであるが、実際行ってみてもそうであった。アメリカの工業生産の中心地の一つでもあったクリーブランドは、鉄鋼産業の衰退と運命をともにしたようである。

実際、ダウンタウンはあまりにも殺風景で、人も車もまばらな印象を受ける。湖の周囲に街が拡散して拡大したためか、中心がわからなくなっている。地元の学生に、この辺りに書店があるかときいても、首を振るのみであった。Cleveland State University とか Case Western とか大学がけっこうあるので、大型書店である Borders のひとつくらいあってもよさそうなものなのだが。

滞在中、ここが街に見える瞬間が、一度だけあった。それはやはりインディアンズの試合のときで、幸いなことに街中にあるスタジアム周辺には、人があふれるのである。そうでなくては。

ちなみに、試合はヤンキースが勝ったが、松井は暇そうであった。


場所: 東京, Los Angels

テーマ: 天使はどこに宿るか

date: 2006

東京はとらえどころがない。東京といえば東京タワー、というのは随分昔の話ではないか。最近では高層ビルが増えて、さして目立たなくなってしまった。少なくともイメージの上では。例えば海外から帰ってきて、何を見たら「東京」なんだろうか。個人的には街のデッサンの狂いっぷりである。

東京は都市の複合体で拡大を続けることもあり、その中心たる皇居が不可視であることもあり、イメージを作ることが難しい。新宿や渋谷といった都心部なら、それなりにイメージはあるのだが。東京駅の赤煉瓦、首都高の下の日本橋といったモニュメントもあるが、個人的にはお茶の水駅の、水道橋側の橋から秋葉原方向を眺めた聖橋近辺の立体的込み合いかたが東京らしいと思える。

ロサンゼルスも、同様に中心に乏しい。天使の街というが、それはどこにいたのだろう。ハリウッドやビバリーヒルズにいたのだろうか?まさかフリーウェイを流している訳ではないだろう。もしかしたらチャイニーズシアターの客席の隅にいるのかもしれない。

東京にも、天使が宿るとしたらそれは夜だけであろう。羽田便は月に一度は乗るのであるが、低空で見る東京の夜景は視界全域を乳白色の炎のような輝きが支配する。ただしこれは醜いものが大概見えなくなっているからで、天使というよりも悪魔の仕業かもしれない。


場所: ベルリン

テーマ: 天使はどこに宿るか

date: 2005.10

日本で「ベルリン・天使の詩」という映画が公開されたのは、壁崩壊の前年だった。

再統一、西側の首都移転を果たしてからもずいぶんたつが、ワールドカップ開催を目前にしたベルリンは、あちこち掘り返している最中であった。ベルリン中央駅は、ワールドカップ開幕直前にオープンするらしい。

ドイツというと、どこかしら垢抜けなさを感じることが多いが、果たしてベルリンも例外ではなかった。ベルリンの場合は、街路がメリハリなく広がっているところにある気がする。

歴史的にも、ロンドンやパリと違って、一気に首都になってしまったベルリンである。森鴎外が菩提樹下(Unter derLinden)の華やかさを「舞姫」に記しているが、こことて、もとはベルリンの城門の外から Tiergarten を結ぶ(多分貴族専用の)遊歩道であった。1871年にドイツの首都となったあたりから急激に拡張して、いつのまにやら鴎外の時代までに目抜き通りになってしまていたわけである。鴎外の渡独は、1884年からだから、わずか13年のことである。産業革命以降の恐ろしさか。だから、急造の都市の常として、大戦前から垢抜けない街であったことは想像出来る。

東西分裂時代は、旧市街地が東にとられてしまっていたので、西側はかなり中心を欠いたものになってしまっていただろう。でも天使は西側にいたのだけれども。

C検問所 (Checkpoint Charlie) はいま市街に埋没している。ここだけは残されるだろうが、最も分裂時代のベルリンらしさを感じる場所でもあった。壁は何カ所か残されているが、あまりにも突貫工事で、鉄筋がはみ出していたり穴だらけだったりで、そのうち自壊するのではなかろうか。そのとき、どう保存(再建?)すべきか、見守りたいと思う。

壁の向こう、今は博物館島とよばれる島は、その昔は Koeln と呼ばれた都市であり、その対岸、いま Alexanderplatzのあたりが、本来のベルリンの中心であったはずである。今はどこもかしこも掘り返されているのだが。Alexanderplatz のむこうには、四角い箱のような、それでも東京よりはまだ少し箱らしさを持っているような建物の群れが見えた。

冷戦終結後、何もなかったポツダム広場には、高層のビル群が建てられた。地ビールはうまかったが、ただ、そこには何かがかけている気がした。それは、最近の商業建築にも感じられる、壁に設けられたせり出しの上にいる感じがする、微妙に狭い寸法設計のせいだけではない。多分、記憶というものだ。

天使はまだベルリンの天空(der himmel uber Berlin)に宿っているのだろうか。宿に帰る途中、操車場跡地にかかる橋の上、廃店舗に人がいると思ったら、ナイトクラブとして営業中だった。こういう場所にはまだ現れるかもしれない。ところで、「記憶」って何だ?


場所: 東京

テーマ: 記憶

date: 2006.6.14

高校時代、通っていた学校は結構都心にあった。1年の頃は都庁の新宿移転などで、地価上昇が懸念されているあたりで、バブルという言葉もあったかはわからない。ところが、それから東京は大きく変わりだした。地上げ屋、という言葉はもうあったのではなかったか。

最初に変化に気づいたのは、映画館のあいつぐ閉鎖だった。そのころ、ちょうど名画座で映画を見始めたあたりで、行く映画館が開拓する先から閉館していったというのも、あながち誇張した表現ではない。

皮肉なことにものが壊れ始めた時期は、赤瀬川原平のトマソン、藤森輝信の路上観察、荒俣宏の「帝都物語」などをきっかけにした、江戸東京ブームのはしりの時期でもあった。それらに取り上げられた興味の対象を実際に見ようとするのは、時間との戦いであった。レトロなんてブームもあったが、実際大衆に受けるのは再現されたものでしかない。本物は薄汚れていて、しきたりもあって面倒くさいものであるから。

さて、当時、港区は山手線付近をのぞいては都心とはいっても交通の不便な場所だった。大江戸線ができたのはずいぶんあとの話である。ウォーターフロントという言葉がはやり出した前後の時代である。今お台場新都心となっている場所など、まだ造成中であった。

丁度地学の授業で、東京の古地形の残っている場所を回って歩くという実習があった。「くれぐれもアメリカ大使館とソ連大使館の前では騒ぎを起こさないように」と、実験助手にいわれたものだ。まだ冷戦の時代であった。飯倉の交差点から六本木方向に歩き、台地の切れ端だったか、車道は平坦なのにその脇の歩道だけ2度にわたって上下をくりかえしている場所があった。そのあたり、道の向こう側が塀に覆われていた。その後のアークヒルズとなった場所であった。この地は赤瀬川「超芸術トマソン」に詳しいが、街全体が取り壊されたのである。

そういう再開発は、ほんの数カ所でしか行われていないものだと思っていたら、浜松町のあたりから、低層のビルが消え出した。そうこうしているうちに、学校近辺の住宅が消え始めた。通りに面していた、老人のやっていた米屋が閉店したかと思うや否や、そのブロックが丸ごと塀に覆われ、すぐに更地にされてしまった。

よく商店街で、店が改築されたりしていると、そこには前何があったか思い出せないなんてことがあるが、この場合は図と地が逆転していて、ほんの数軒しか残っていないという状態で、それも空き屋なのである。 しかも急に見通しがよくなって、メンタルマップ上では遠くにあるはずのランドマークが急に近く見えたりする。目眩にも似た感覚である。

これは、記憶が消えたことだ、と直感的に思った。ドラマ「岸辺のアルバム」は、多摩川の決壊で流された家から、家財とともに流出したアルバムがその持ち主である住民の手に戻ったことから着想を得たというのを聞いた気がするし(うろ覚えである)、映画「ブレードランナー」では大人の形で生まれた人造人間(レプリカント)が大事に持っているのは写真である。

ずいぶん後になってから、中世後期の記憶術は、都市、それも実在する場所の様々な細部に記憶したい事柄を関連づける。というものであることを知った。安易に壊すのは、健忘症のあらわれなのであろうか。

なぜ実在の都市なのか、という問いにはそこでは答えられていない。しかし、自宅から職場まで12Km、ランドマークは10に満たないが、これを東京に置き換えるとどれだけの範囲が入るか考えるとぞっとする。とだけいえば十分であろう。たとえ方向感覚に乏しい人でも、その場にいれば多くのものを認識できるはずである。

City as a collective memory という本は、ずいぶんかかってまだ読み終えていない。