古代ギリシャ数学の伝統は近代数学に脈々と続いています. 古代ギリシャの代表的な算術書はユークリッド (Euclid, 330−275 BC) の 「原論」(Elementa) ですが, その他, ヘレニズム時代の算術書, 古代インドの算術書, 古代中国の算術書, イスラム帝国時代の算術書などと 近代数学や理論計算機科学との繋がりを眺めることは楽しいことです.
古代ギリシャのピタゴラス学派やプラトンらの数学的な蓄積を引き継いで, ユークリッド(Euclid, 330−275 BC) は紀元前300年ごろに「原論」(Elementa) を 著しました. この書物は13巻からなっており, 幾何学と数論を展開しました. 古代ギリシャ数学の集大成であった「原論」は, 幾何学や数論の経典として, 二千数百の長き間, 不朽の価値を持ち続けました. また, この書は多くの学者に研究され, 注釈されてきたばかりでなく, 学校数学の教科書として近年まで実際に使われてきました. しかし, 「原論」の形成過程についてはよく分かっていません. ユークリッドに先立って, 複数の学者達によって「原論」の編集が 行われていたという説もあります. 「原論」の第1巻は23個の「定義」, 5個の「公準」, 9個の「公理」から始まります. 第2巻〜第7巻, 第10巻, 第11巻もいくつかの「定義」から始まります. 「定義」, 「公準」, 「公理」は, ギリシャ語のヒュポテシスが分化したものです. ヒュポテシスは英語のhypothesis (前提) の語源です. 「定義」が議論を進める上での共通の前提に対して, 「公準」は弁証法において, 相手が自明のこととして受け入れることに疑問があるかもしれないことを, 前提とすることを意味する用語です. 「公理」は共通概念で, 「公準」に近い意味です.
「原論」に与えられている結果は, 「定義」, 「公準」, 「公理」から演繹されたものです. すなわち, この書は, 厳密な公理的論証の体系を与えています. このような手法は, 紀元前5世紀のエレア学派の弁証法に影響されて形成されたと 考えられています. エレア学派というのは, 紀元前5世紀頃にイタリア半島南部に開花した哲学の一派で, パルメニデス(Parmenides, 515−450 BC頃) やゼノン(Zenon, 490−430 BC頃) 等に 代表されます. ヨーロッパで生まれた近代数学の厳密さは, 古代ギリシャ数学を基礎としていると云われているのは, 近代数学は「原論」に見られる公理的論証法の精神を受け継いでいると 見なされているからです.
「原論」が紀元前300年頃に世に出るや, すぐに普及しました. アルキメデス(Archimedes, 287−212 BC) などは, 「原論」に記述されている命題を巻数と番号で引用していました. 3〜5世紀頃のエジプトのアレキサンドリアや小アジアでは, 「原論」の体系的な注釈本がいくつか世にでました. 8〜10世紀頃のイスラム帝国黄金時代には, 「原論」はアラビア語に訳され, アラビア数学の発展に貢献しました. 11〜12世紀頃に, アラビア語で書かれた「原論」がラテン語に翻訳され, ヨーロッパに伝承されました. ギリシャ語の原典から直接ラテン語に翻訳された「原論」も見つかっておりますが, 当時のヨーロッパでは, アラビア語からラテン語への翻訳本の方が普及していました. この頃のヨーロッパはいわゆる暗黒時代で, イスラム文化圏の方が, 経済, 学問などで ヨーロッパよりかなり進んでいました. 1450年にドイツ人のグーテンベルグ(Johannes Gutenberg, 1398−1468頃)が, ぶどう絞り機にヒントを得て活版印刷機を発明しました. それ以後, ヨーロッパでは宗教書や学術書の出版が盛んになり, 「原論」のギリシャ語の復刻版やラテン語の翻訳版, 各言語の翻訳版もヨーロッパの各地で相次いで出版されました. 例えば, 「原論」のドイツ語訳, フランス語訳, 英語訳, スペイン語訳は 16世紀に出版されています. 因みに, 中国語訳は17世紀に, 最も古い日本語訳は1884年に出版されました.
ユークリッドの「原論」の7巻に2つの自然数の最大公約数の求め方が 与えられています. ユークリッドのアルゴリズムといえば, この手順を指します. ユークリッドのアルゴリズムでは, 2つの自然数, r0とr1の最大公約数は 次のように求めます. r0をr1で割り, 余りがなければr1が最大公約数です. 余りがあれば, そのときの余りをr2とし, r1とr2の最大公約数を 同じ方法で求めます. すなわち, r1をr2で割ったときに, 余りがなければr2が最大公約数です. 余りがあれば, そのときの余りをr3とし, r2とr3の最大公約数を 同じ方法で求めます. このようにして, 割り算のときに余りがなくなるまで続けます. 余りはだんだん少なくなるので, このアルゴリズムによる計算はいずれ終了し, 最後の除数が最大公約数です. このアルゴリズムは再帰的な構造をしており, 計算の効率も極めてよいのです. 多くの計算機アルゴリズムの教科書には, このアルゴリズムが記述されています. 二千数百年も前に, このようなアルゴリズムが存在していたことは, 驚くべくことです.
「原論」では, 素数についても論じています. 素数が無限個あることの証明は「原論」の9巻に与えられています (命題20). 整数の中でどれだけの頻度で素数が現れるかは, 当時でも興味があったであろうと想像できますが, この問題は近代数学の時代になってからやっと解決しました. 1798年に, フランスの数学者ルジャンドル (Andrie-Maria Legendre, 1752−1777) は整数x以下の素数の数の近似値として, x/(ln x - 1.08366) を与えました.
ドイツの数学者ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss, 1777−1855)は, ルジャンドルよりもよい近似式を与えました. ガウスの与えた近似式は, x以下の素数の数は 1/(ln x)の2からxまでの積分値です. ガウスの近似式はxが大きくなるにしたがい, 漸近的に正しい値に近づくことが予想されていましたが, その証明は難解でした. この命題は「素数定理」(Prime Number Theorem)と呼ばれ, ドイツの数学者リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann, 1826−1866) も その証明に取り組みました. 彼は「リーマン予想」と呼ばれる命題を考え, それが正しいことを証明しようと試みました. その命題とは, ゼータ関数と呼ばれる複素関数に関するものです. 「リーマン予想」が正しければ, 「素数定理」も正しいことがいえます. しかし, 「リーマン予想」は解析学の難問で, 21世紀の今日でも未解決です. フランスの数学者アダマール(Jacques Salomon Hadamard, 1865−1963) と ベルギーの数学者ポアソン (de la Vallee Poussin, 1866−1962) は独立に, 「リーマン予想」を用いないで, 1896年に「素数定理」が正しいことを 証明しました.
ユークリッドはエジプトのプトレマイオス王に, 「原論」よりも手っ取り早く幾何学を学ぶ方法はないかと訊ねられ, 「幾何学に王道なし」と答えた話は余りにも有名なエピソードです. 19〜20世紀に活躍したイギリスの著名な数学者であり, 哲学者であったラッセル(Bertrand Russell, 1872−1970) は 彼の自伝の中で次のように述べています. 「私は11歳のときに兄と一緒にユークリッドの原論を学び始めました. このことは, 私の人生で経験した偉大な出来事の一つです. それは, 初恋のときに味わうような目も眩むような感動でした. この世の中にこんなにも素晴らしいことが存在しようとは, それまで想像することも出来ませんでした」. 近代ヨーロッパの科学者の多くは, 彼らの少年, 少女時代に ユークリッドの「原論」を学び, 大きな感動を覚えたであろうことは, この文章からも想像できます. 近代ヨーロッパで, 自然科学や数学の分野での素晴らしい成果が次々と生まれたのも, このような下地があったからだと思います.
ユークリッドの「原論」に匹敵する書として, ディオファンタス(Diophantus, 紀元250年頃か300頃年頃)の「算術」 (Diophanti Alexandrini Arithmetica ) を上げることができます. ディオファンタスは古代ギリシャ数学の伝統を引き継ぎ, エジプトのアレキサンドリアで紀元250〜300年頃に活躍し, 13巻からなる「算術」を著したこと以外は, 余りよく分かっていません. 彼が何処で生まれ, いつアレキサンドリアに来て, いつ亡くなったかもはっきり分かりません. ディオファンタスの業績は, 紀元250年頃に著された「算術」に 詳細に記述されていますが, その「算術」も6巻しか現存していません.
アレキサンドリアはプトレマイオス朝の時代から, ディオファンタスの頃までの数世紀にわたって, 学問の中心でした. 紀元前3世紀のはじめに, この地に建てられたアレキサンドリア文庫は 古代最大の図書館とされ, ヘレニズムの学問研究の拠点でした. しかし, 数度にわたる外国軍の攻撃にさらされ, 数え切れないほどの 多くの貴重な蔵書は失われました. 「算術」の6巻が生き延びたのは奇跡に近いと云われています. これらの攻撃は, あるときはキリスト教徒によるものであり, あるときはイスラム教徒によるものでした. 紀元642年, イスラム軍がアレキサンドリアを攻略したときは, 残された蔵書もほとんど焼かれたり, 破棄されたといわれています. 一部の知識人が焼け残った蔵書を アレキサンドリアからコンスタンティノーブルに移しました. ディオファンタスの「算術」もこの中に含まれていたと思われます. しかし, 災難はさらに続きます. 1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノーブルの襲撃があり, ここでも多くの蔵書が失われました. ビザンティン帝国の学者達は貴重な蔵書の一部を運び出し, それらをヴァチカンに持ち込みました. このような受難の時期を含めて, ヨーロッパの学問は, 7世紀頃以後, 15〜16世紀頃まで停滞していました. この時期の学問の中心は, イスラム文化圏やインドでした. 15世紀になって, ディオファンタスの「算術」の一部は ヴァチカンで発見されましたが, そのラテン語訳がヨーロッパで刊行されたのは16世紀になってからです. 「算術」がヨーロッパに登場したのは, それがアレキサンドリアで誕生してから, 実に約1300年も経ってからです.
「算術」には, 100余りの問題と, それらの丁寧な解答が書かれています. 問題の多くは複数個の未知数に対する, 整数係数の代数方程式の整数解を求めるものです. このような方程式のことをディオファンタス方程式といいます. ディオファンタス方程式には, 解がないかも知れないし, 解が有限個あるかも知れないし, 解が無限個あるかも知れません. 例えば, a, b, c がすべて整数で, 未知数が x と y の方程式 ax + by = c について, x と y の整数解を求める問題は, 2個の未知数についての, 1次のディオファンタス方程式です. この方程式が解をもつのは, c が a と b の最大公約数の倍数である場合で, そのときの整数解は無限にあります. このような方程式は, 一般に解が一意に定まらないので不定方程式と呼ばれています.
「算術」のラテン語訳はいくつか刊行されましたが, 1612年に, フランスの数学愛好家, バシェ(Claude-Gaspar Bachet de Meziriac, 1581-1638)のラテン語訳が よく知られています. フランスの法律家であり, 数学愛好家であったフェルマー(Pierre de Fermat, 1601−1665)は バシュ訳の「算術」を学びながら, その余白に書き込みをしていました(1637年頃). これらの書き込みは48箇所あり, その多くは数論に関する命題の形をしていました. その中の1つに, 「n > 2 のとき, xn + yn = znを満たすx, y, z の 零でない整数解は存在しない. この命題の証明を得たが, それをここに記すには余白が小さすぎる」とあります. これが世に言う「フェルマーの最終定理」です. 云うまでもなく, n=2のときは, ピタゴラスの定理から分かるように, x2 + y2 = z2 の整数解は無限個あります. しかし, n > 2について, この命題の証明は極めて難解で, 多くの数学者が挑戦しましたが, 358年間も未解決でした.
イギリスの数学者, ワイルズ(Andrew John Wiles, 1953−)は, 8年におよぶ努力の末, ついにフェルマーの最終定理の証明に成功しました. 1984年頃には, 「谷山-志村の予想」が証明されれば 「フェルマーの最終定理」は証明できることが分かっていました. しかし, 「谷山-志村の予想」の証明は極めて難しく, 大きな壁でした. ワイルズは「谷山-志村の予想」を証明することにより 「フェルマーの最終定理」を証明したのです. 彼の証明は, 20世紀の数論の手法を駆使して生まれたものです. ワイルズの証明は, 1995年刊のアメリカ数学会の雑誌, Annals of Mathematics に 掲載されました. フェルマーが「算術」の余白に残した命題(フェルマーの最終定理)は, その後の数論の目覚しい進歩のきっかけを与えたと言えます. 「谷山-志村の予想」は谷山豊(1927−1958)が, 1955年の日光での国際シンポジウムで提案した楕円方程式に関する問題を, 志村五郎(1930−)が「すべての楕円方程式はモジュラー形式と深い関係がある」 という予想に発展させたものです. 天才, 谷山豊は自ら蒔いた数学の種が見事に育っていくことを見届けないで, 31歳の若さで自らの命を絶ちました. 楕円方程式というのは, y2 = x3 + ax2 + bx + c なる形の ディオファンタス方程式のことです. ここで, a, b, c は任意の整数です. ディオファンタスは 「算術」の中で楕円方程式の性質を記述していることから分かるように, 楕円方程式は紀元3世紀ころから関心がもたれていました. それに対して, モジュラー形式は19世紀になってから, やっと数学の世界に登場しました. モジュラー形式は数学の極めて難解な領域で, ある種の対象性を持つ演算の世界です. ワイルズの貢献は, フェルマーの最終定理を証明したことよりも, 楕円方程式とモジュラ形式を結びつけた, 「谷山-志村の予想」を証明したことの方が より大きいと云われています.
ロシア生まれのドイツ人数学者, ヒルベルト (David Hilbelt, 1862−1943) は, 1900年のパリで開催された国際数学者会議で, 20世紀の数学の方向性を示す23の問題についての講演をしました. これらの問題は「ヒルベルトの23の問題」として知られており, 今日でも未解決な問題を含みます. 「リーマン予想」もこの中に含まれており, まだ解決していません. ヒルベルトの23の問題の10番目は, 「n個の未知数を含む整数係数の多項式, すなわちディオファンタス方程式が整数解をもつかどうかを判定する アルゴリズムを見つけよ」です. この問題は, 1970年にロシアの数学者, マティヤセヴィチ(Yuri Matiyasevich, 1947−) によって否定的に解決されました. すなわち, ディオファンタス方程式が整数解を持つかどうかを判定する アルゴリズムは存在しないことが示されたのです. 解の範囲を有理数に拡張すると, この問題は今日でも未解決です.
有限個の整数の世界で, 四則演算が行えるようにすることは古い時代から考えられていました. {0, 1, ,2 , ... , m−1} はm個の整数の集合です. この集合をZmで表わします. Zmの世界での加算, 引き算, 掛け算は通常の整数の世界のように計算し, 計算結果がm以上のときは, それをmで割った余りとします. また, マイナスの数はmの整数倍を加えて0以上m−1以下の数にします. Zmの世界では, 割り算は, 除数の逆数と被除数の積になります. 逆数が存在するのは, その数とmが互いに素のときです. このような計算を, mを法とする剰余計算といいます. この計算を mod m で表記します.
紀元400年頃に書かれた中国の算術書, 「孫子算経」に 「3で割れば2余り, 5で割れば3余り, 7で割れば2余るような数は何か?」 という問題があります. 「孫子算経」は古くから中国, 朝鮮, 日本で使われてきた算術書ですが, 著者は不明です. 現存する最古の版は南宋本で, 上, 中, 下の3巻からなっています. 上の問題は連立合同式, x = 2 (mod 3), x = 3 (mod 5), x = 2 (mod 7) を解くことです. このような連立合同式を一般的に解く公式は19世紀にガウスによって示され, 「中国人剰余定理」(Chinese Remainder Theorem)と呼ばれています. 剰余計算は現在の情報処理, 符号理論, 暗号理論などで重要です.
律令は中国で発達した法体系です. 律令国家は律令を統治の基本法典とした国家で, 中国の隋・唐で確立し, 周辺諸国に波及しました. 日本でも7世紀半ばから形成され, 整然とした官制の下で, 多くの官僚がこれを支えました. 古代日本の基本法典である「大宝律令」が701年に制定され, 古代日本の法的整備がなされました. 中国では唐の時代, 日本では律令国家の制度を取り入れた頃から, 式部省大学寮 (官吏養成機関)の算法教育の教科書として, 「孫子算経」が使われていました.
剰余計算は, 7世紀のインド, 18世紀以降のヨーロッパ, 江戸時代の和算においても かなり研究されていました. 例えば, 古代インドの数学者はブラマグプタ (Brahmagupta, 598−?) は ブラマの正当システム(Brahma-Sphuta-Siddhanta, Brahma’s Correct System) と呼ばれる次の問題を述べております.
「市場にきた老女の卵を入れたかごを馬が踏み潰しました. 馬の持ち主は老女に潰された卵を弁償することを申し入れました. 老女はかごに入れた卵の個数を正確に覚えていなかったのですが, 2個ずつ分けても, 3個ずつ分けても, 4個ずつ分けても, 5個ずつ分けても, 6個ずつ分けても1個余るが, 7個ずつ分けると余りがないことを覚えていました. かごの中の卵の可能な数の最小値はいくらですか?」
有理数係数の1変数の代数方程式のうち, 1次方程式, ax + b= 0 の解法は自明です. 2次方程式, ax2 + bx + c=0の解法は, 628年頃にインドの数学者, プラマグプタによって示されました. 9世紀にバグダッドあたりで活躍したアラビア人数学者, アル・フワリズム (Al Khawarizmi, 780−850頃) の著した算術書, 「インドの数の計算法」 (そのラテン語訳の題名は, ”Algorithmi de Numbers Indorum”)によって, 2次方程式の解法はヨーロッパに伝わりました. この書は825年に著され, 加減乗除の算法, 2次方程式の解法, 幾何学, 零の記号を 用いた10進記数法などを取り扱っています. アラビアで発達した代数学は, 方程式の解を求めることが重要なテーマでした. 2次方程式の解法で見られるように, 整数, 分数と共に, 平方根などの根数も 数として取り扱うようになりました. 中世ヨーロッパの大学では, アル・フワリズムの算術書は数学の主要な教科書として 500年にわたって用いられていました. 3次方程式や4次方程式の解法は16世紀にイタリアの数学者達によって示されました. アル・フワリズムの「算術書」は中世以降のヨーロッパにおいて, 代数方程式の解法の研究が盛んに行われ, 近代代数学に発展していった源流でした. アルジェブラやアルゴリズムという語はこの算術書に由来します.
Back to Table of Contents Last modified: Thu Jul 21 08:14:25 JST 2005 modified/maintained by R.Uehara (uehara@jaist.ac.jp) |