これから半年間で何をどうするか計画を立てる.これは常に修正・立案を続ける.すなわち,6か月の計画を立てたらあとは半年後まで何も考えないのではなく,毎月のように,その時点からの半年を考える.1年・2年のレンジで計画を立てるのは不毛であると思う.不確定要素も多いし,人間はそんなに遠くまで見通せるものではない.
計画立案に際しては,自分で動かせない〆切を設定する.具体的には研究発表,学会投稿の〆切などである.
6か月で何をするかを考えたら今度はそれを半分ずつに区切って逆算してみよう.3か月では何ができていればいいか,次は1か月で何ができていればいいか,そして次は2週間で何ができていればいいか.ならば1週間では? 3日では?では今日は何をすべきか.
研究内容と言うのは素人にはわかりにくいものである.わかりにくい理由が多大なる基礎知識を前提にしないと理解できないからというなら,ある程度しかたない.しかし,なぜそういう研究をやっているのかという動機の部分は誰にでも理解できるものでなければならない.研究でやっている内容がすぐ役に立つとか世の中のためになるというなら,それでもよい.実際計算機科学というのは世の中で役に立つものだけに,そういう動機は容易に理解されるようだ.だからと言って役に立つかどうかという価値観に縛られる必要はない.多くの研究者が言うように研究というのはおもしろければいいのだと思う.ただし,ならば何がおもしろいのかを的確に伝えなければならない.天文学や考古学はおよそ浮き世離れした学問であり,とてもすぐ役には立ちそうにないけれど,税金を何十億円もつぎ込んで衛星打ち上げたり加速器を作ってもあまり文句は言われない.そのロマンが人にわかりやすいからだと思う.
プロの研究者とアマチュアの学生の違いは,前者は常に自分の見通しをディフェンスできることである.ディフェンスの自信を生むのは自分が専門とする分野について的確にその研究の動機を説明でき,その魅力を他人に説得できることである.
聴衆を前にしては,自分の頭で納得したことを話す.自分の頭でわかっていること以外を理解してもらおうと思ってもそれは無理.聴衆の方を向いて明瞭な声で話す.ウケを狙う工夫をすれば,あとの話は聞いてもらえる.あるいは,魅力的な話であれば必ずウケを狙うネタの一つや二つはあるはず. OHPや発表用資料は絵心やデザインセンスがモノを言う.うまい人のまねをしよう.
書くことは思考の手段である.書いたことは他人に読んでもらえる形式にすべきである.他人は自分とは思考・知識を分けあっていない.自分の主張を他人に伝えるためには,まず議論の土台となるところを確実に伝えなければならない.さらには,自分にとっては容易な三段論法も,バックグラウンドの違う人にとっては理解困難であることも推して知るべしである.他人に自分の考えを伝えるには自分よりはるかに用意周到にならなければならない.これは読む側に立ってみればわかる.読んでわかりにくいのは筆者のせいである.書く側は一人よがりであってはいけない.
自分の考えを公開するときは,自分の考えの長所と思うところも迷いが消えるまで納得するまで作文する.自分自身が納得していないことをどうやって他人に説明できようか.この作文がやがて「これこれなるなる弱点は承知の上だが,それを上回るこういう利点がある」式の説得力のある論文を生む.
“Publish or perish.” 考えを発表しないのは,外からの観察にかからない.すなわち外から見れば何をしていないのも同じである.
常日頃,力のこもったいい文章を読もう.気合いの入った文章を多く読む.そしてスタイルをまねる.誰々風の口調を,文体をまねて,きどって書いてみる.
書くに際しては正しい書法を学ぶべきである.コロンやセミコロン,イタリック体やクォートの正しい用い方,図・表の見せ方.LaTeX を皆が用いるようになったおかげで著しい誤りは減ったものの,書法の型やぶりはそれだけで筆者の品性と見識を疑うに足る.
19世紀に英国が世界に植民地を拡大し,その次の世紀で米国が未曽有の経済的繁栄を遂げてしまったことは,全世界の非英語民族にとって全く残念かつ不運なことである.加えてここ 10 年くらいはインターネットを含むメディアの尋常ならざる進化で情報交換量が爆発的に増えてしまった.つい 10 年前はドイツ語やフランス語,ロシア語を解することの価値があったが近年その価値が急速に薄れつつある.19世紀のザメンホフの試みも現代の機械翻訳の試みも道は未だ遠いようである.しようがないからあきらめて英語を勉強しよう.避けて通ることは単に自分の価値を下げるだけである.
中学・高校を通じて英語を習い,その必要性も何となく理解できるのにやっぱり英語は避けて通れてきたというのが多くの人にとって実情であると思う.日本の一部の大学では英語なぞ読めなくても日本語で書かれたものだけを調べて卒論は書けただろうし,今後また社会に出ても避けようとすればいくらでも避けることができるだろう.しかし研究という領域においてはそれは通用しない.論文の 9割以上は英語で書かれている.その 9割以上を避けて読まずに通すということは調べ物を拒否するということであり,そこを拒否すれば当然その先に積むべき自分の仕事は成り立たない.
英語の勉強法が市中の本に山ほど書いてあるが,特にリスニング能力を高めたければひたすら時間数聴きまくるしかないように思う.ここで一つだけ提案.最大の難敵は /l/ と /r/ の区別であろう.(/s/と/θ/, /b/と/v/,/h/と/f/ はどちらか一方が日本語にあるからまだ区別しやすいと思う) ふだん英語を読むときはもちろん,外来語を話すときも自分の舌の位置を区別してみたらどうか? 幸いなことに,いや残念なことに,ほとんどの計算機用語は英語をカタカナにしただけ.これらの中でもともと /l/ のところは,舌を上歯裏につけて言う習慣をつけてみる.
数学が得意な人なんていない.人間に男女や血液型の区別はあっても,文系・理系の区別なんてない.高校時代の進路選択の問題を,数式に対して思考停止するか否かの問題にすり替えてはいけない.
数式には書いた人・作った人の気持ちが籠っている.数式で書いてあるということは,文字で書けば冗長になるところをきれいにコンパクトにまとめてあるということである.ならばそこに含まれている多くの情報を確実に取り出さなければならない.式を読み飛ばすのは道断である.自分は数学が苦手だと思っている人の多くは式を理解しようという誠意が足りないのである.式を書いた人・作った人も最初から記号の組合せだけで作ったわけではない.そこには言語なり視覚的なり別のメディアで語られるべきイメージがあり,それを明確に示すために形式的に置き換えたに過ぎない.一つの式をじっくり眺め,それが何を言っているのか考えよう.頭の中にイメージが湧くまで考えよう.
急がば回れ.言い替えて,急がば読め.何かの期限が迫っていて何もアイディアが出てこないときに,自分の頭で何かを紡ぎ出そうとしても無駄である.カラの頭からは何も思いつけないのである.期限が迫っているときこそ,前から読まなくてはと思っていた本・論文を開いてみる.読んで理解したことに基づけば数ページ程度の文章くらい一晩で書けるものである.
読書法は世間で膾炙されるだけにいろいろな人がさまざまなことを言っている.自分で気にいった読書法の本があればそれをバイブルにしても構わないが,ここでも一つの提案.読書法には緩急二つのギアを頭の中にセットしておこう.一つ目のクイックモードはいわゆる斜め読みであり,どういう傾向の内容であるか,自分の知りたいことが書いてあるかどうかを判断できるだけでよい.英語で斜め読みは難しいと思う人も多いだろうが,図や式なら目にとまるはずであるから,そこから特徴を捉える.一様にアルファベットが並んでいる文でもクォーテーションやイタリック体など特徴あるところを目にとめる.もう一つはじっくりモード.なまじ自分の知っている分野の本だと逆にこれは難しい.しかし自分をだまして知らないふりをしてゆっくりと書かれてある論理を追ってみよう.自分の研究にとって大事な文献であるなら,この両方の読み方を試みなければならない.
文献読みが思うように進まないときは,本を閉じて計算機に向かい,思うところを書いてみる.今度は自分の頭と手から創造する. このように勉強モード (吸収モード)と創造モード(吐き出しモード)は一方が行き詰まったら他方に切り替える.
疑問を感じたら考える.問題を与えられたら考える.自分の頭で考えてみる.考えるのを途中で放棄しない.考えるのを煩わしく思うときから思考停止の習慣が身についてしまう.
あることを考え始めたときに,そういうことを考えるためには専門知識が足りないと思うのは,思考を停止するための言い逃れである.専門用語や概念・知識は知っているに越したことはない.それはふだんから身につける努力をすべきである.しかし,それがないからと言って考えを放棄していい理由にはならない.自分の今知っていることから普通にさらなる思考が湧き出てくるはずである.それを停めてはいけない.
考える習慣は日常から身につけるものである.問題を与えられたら,新聞やテレビの報道を目にし耳にし疑問を感じたら,窓の外に自然現象を観察したら,それはどういうことなのか自分の頭で考えてみよう.
古来日本語は句読点「、。」で止めるものである.実際また日本語は本来縦書きであり,したがって縦書きの文章は句読点を用いるべきである.ところが,理科系の論文のように横書きだとコンマ・ピリオド「,.」の方が勝手がよい.理由の第一は英字や数式が入り込むことであり,それらは「,.」で止めるべきものであるからである.
例) したがって xxxがyyyのとき, xxx = yyy。
ってのは何かかっこ悪い.式も文の一部であり,したがって必ず句点かピリオドかで止めなければならない.ならばやっぱり,
xxx = yyy.
といきたい.
ところで「,.」にも2バイト文字がある.そう言えば( )も!も?も@も,そして英数字すらもJISの「漢字」がある.なぜ半角・全角の両方が必要なんだかよくわからないが,日本語の中では全角のものの方が見栄えがいいというのならそこは譲ろう.しかし英数字の中では半角のものを使うべきである.一つの英数字列の中に全角・半角が混在するというのは道断である.ところで混在と言えば,「,。」の組み合わせや「、.」の組み合わせを許せるか? 日経サイエンス誌は前者の組み合わせである.でもこんな混在用法はやめようや.
これらはもちろんすべて半角 (1バイト) 英数字での話.タイプライター時代からの大事な伝統である.これはいまも守られるべきである.タイプライター時代にはピリオドの後にはブランク2個と言われたもんだ.とにかく半角のコンマの後にすぐ次の文字が来た日には見ていて狭苦しいったらありゃしない.ついでに言うと半角の ( ) を使う時はその前後にも半角スペースを空けよう.もっと言うと,一つの文書の中で全角から半角に切り替わるとき,半角から全角に切り替わるときは半角スペースを空けよう.
よく見るまでもなく,
` と '
って明らかに違う文字.ちゃんと区別しよう.前者はクォートを始めるとき後者は閉じるとき.ときどき平気で ‘xxx’ なんて書く人がいる.この用法は UNIX のシェル・スクリプトをはじめ,プログラミング言語の中でより少ない記号でやりくりしようという場面においてのみ許されるべきことと考える.正しくは `xxx’ である.もちろんダブルクォートも開始は “ で閉じるときに ” である.
クォート開始は一般にはキーボード上のバッククォートキーを使うが,マイクロソフト社 Word では通常のクォートキーを使ってもクォート開始だとちゃんと後ろを向いてくれる.便利なんだか不便なんだか.Mule の TeX モードでダブルクォート開始はバッククォートを2回打つが,今度は “ もご丁寧に ”(クォート2回) に分解してくれる.
クォートとダブルクォートの使い分けは? 原則はダブルクォート “…” であり,その中でさらに引用があるときは
``.....`....'.......''
のようにシングルクォートを使うということである (cf. The Random House Dictionary: Basic Manual of Style).ところが最近はダブルクォートなしでシングルクォートもよく見る.見ていると短い語句にはシングルクォート,完全な文を引用するにはダブルクォートが使われているようである.何をもって正しい書法と言うのかわからないが,多数の人が使えばいつの間にか市民権を得てしまうのが言語の約束だから….
シングルクォートもダブルクォートも,最後のコンマやピリオドは中に取り込むのが原則.
John said ``I ate an icecream.''
ところが上の例だとロジカルにはピリオドは二度打つべきだし,それも煩わしいので一度だけというならむしろダブルクォート閉じの外に打つべき,と考える人が最近増えたらしい.出版物の中でも最近はコンマ・クォートを外に打つスタイルが認知されつつあるようである.良し悪しの問題ではないが,好き嫌いの問題? あるいは,美的かどうかの問題か? 言語は流動する.
英文の中でクォートを強調のために使うことがある.これももちろん正当な使い方ではあるが,クォートはクォートというくらいだから引用に使うことにして,文書整形なんでもできる今,強調にはイタリック (斜文字) を使おう.英文で強調にボールドフェース (太文字) を使うのはやり過ぎの感あり.しかし和文ではイタリックがないのでボールドフェースがいいと思う.以前より下線を引くという作法もあるが,下線はやはり字体が自由にいじれなかった時代の名残りではないだろうか.ついでに言うと,文献リストの中では雑誌名・書名はイタリックにするように.
引用の話ついでに.日本語の中で日本語を引用するときは「このように」角かっこを使うべきであり,“こんなこと”はやめよう.英文を参照するときは間違っても「xxx」なんてしないじゃないか.
数式の中で記号の右肩にちょんとつけて微分だのを表わす記号.これはキーボードからクォートで入力するが,LaTeX なんかだと通常のおたまじゃくし形 ‘ ではなく,ちゃんと違うフォント (細長い台形) に表示してくれるはず.区別すべき記号なのである.数式の中で微分のつもりでf ‘ (x)などと書いてはいけない.このままだとアポストロフィ? クォート閉じ?
さて数式の中の ‘ はよく「ダッシュ」と読む人がいるが,英語の dash は横棒であり,- こんな風に使うやつ – である.ハイフンよりは長めの横棒である.英語では数式中の ‘ は prime (プライム)なので間違いなきよう.
セミコロンは,一つの文の中で接続詞以外で節どうしを結ぶとき,あるいは hence, therefore, however などに先行して用いられる.要はコンマより強く区切り,ピリオドより弱く区切る接続である.だから原則
文 ; 文.
の形態. これに対してコロンは文同士の接続ではなくて,
語句 : 文.
というふうに語句と文の関係だと思うとわかりやすい.この原則をちょっと一般化して,“… are as follows: 語句,語句,語句 あるいは “This is the issue: 文 などというパターンもある.後者はコロン以下の文が`This’という語の内容になっている.またコロンには To whom it may concern: や To: Mary など手紙やメモの中で用いられる用法がある.
その昔 LaTeX が流布し始めたころ,図や表の環境を作ると図番号・表番号の後に`:'(コロン) がつくというので話題になった.こんなスタイルはない.
図表は図表番号のあとスペースを空けてキャプションを書く.ただし,図番号・図キャプションは図そのものの下中央に.表番号・表キャプションは表そのものの上の中央に配するべし.これは LaTeX なら自動的にやってくれる.
論文中の参考文献の書き方はこちらを参照のこと.
ABC 理論に基づく PQR システム (タイトル)
[(氏名)]
[(所属, e-mail アドレス)]
[要約 (アブストラクト/梗概)]
[1. 導入 (はじめに – 問題の紹介)]
[2. 準備]
[3. 提案]
[4. 検証]
[5. 結語 (終わりに – まとめ)]
(タイトルの付け方の常道として,既存の理論に基づいた(あるいは応用した) として自分の構築物とつなげる)
(ここは読者に対して著者が基礎知識をレクチャーする節である.この節にはオリジナルな成果が現れてなくてよい.論文で使う記号,概念はここですべて出してしまおう)
(論文の核心! ここに自分の新規のアイディアが現れる)
(新しいアイディアは言いっ放しではいけない.自分一人よがりの主張ではなく,客観的に良いということを客観的な方法で示さなければならない)
自分の提案を検証するしかたを述べる.
結果の解析 – グラフ,表. (結果は必ず視覚的に訴えるように,impressive であるように提示すべし)
考察 – 現れた結果が何を意味するか.これは自分の意図する結果であるのか.問題をどう解決できたか. (誇張はいけない.しかし,寄与/貢献 (contribution) は強く訴えよ)
もし特定の個人の助言/助成金などが研究に決定的に効いたのであれば.
著者,題名,誌名,巻,号,ページ,発表年 – これらの情報の並べ方,間のコンマやピリオドの使い方は投稿する先で定めたスタイルに従うこと.ただし特に定められていないならこちらを参照のこと.
長い式の導入やソースプログラムなど,もしあれば.
論文を書いた後に …この論文はこの提案について初めての人が読むのである.
そして,これを初めて読んだ人が理解してくれると思うか?