小学校高学年の頃、学研の「x年の科学」(x=5,6)を購読した。「学習」は購読しなかった。「科学」を選んだ理由はただ1つ、付録が豪華だったからだ。卓上掃除機、レコードプレーヤー、カメラ、顕微鏡、双眼鏡、天体望遠鏡、ラジオ、エレキギター、オーバーヘッドプロジェクター…。これらは、それ自体で市販され、多くは数万円もするような品種である。そういう品と(グレードの差こそあれ)同種のモノが、たかだか380円(当時)の雑誌の付録についてくる! 何て素晴しい! というふうに当時は付録が大きな魅力を持っていた。 小学館の「小学x年生」(x=1,2,..,6)もそうだったが、我々の頃の付録はプラモデルのように読者が組み立てる方式が主流であった。もっとも「小学x年生」の付録は鉄道法の制約を受けるため基本的に紙製だったのに対し、コンパニオンが各家庭に直接配達する「科学」は本当のプラモデルのごとく樹脂や金属を主材料に使うことができ、質感において数段勝っていた。 したがって「科学」の付録は、子供のモノづくり本能を煽ってやまないパーツの宝庫であった。ちょっとアクティブな子は、付録を説明書どおりに楽しむのに飽き足らず、しばしば編集側の予想を越えた面白い方向へ独自に探究の手を広げた。イヤホンをマイクロホンとして使ってみたり、模型用モーターの軸を手で回して発電できることを確かめたり。何でもそうだが、シンプルな製品は、その気になればユーザーが自由に再構築できることがメリットだ。 ところが、最近の「科学」の付録は、読者が組み立てる必要のない完成品が主流になっているという。不器用な子が増えたので、難しい作業を要する付録ばかり付けていると売り上げに響くという判断らしい。 たとえば1970年代に「科学」の付録についたラジオは、読者が自らエナメル線を蜘蛛の巣状に巻いてアンテナを作らなければならなかった。そのかわり、エナメル線、ダイオード、イヤホンといった極めて単純な部品から100%自分の手で組み上げたラジオで、放送が聞こえた時の驚きと喜びはひとしおだったろう。その後、まずアンテナコイルが既成品に変わり、ついでICを使用するようになり、最近はスピーカーまでついている。性能が高まる反面、必然的に読者の手が関与する部分は減っていく。これは憂うべき傾向だ。 もし今、ちょっとアクティブな子が「なぜラジオは鳴るんだろう」と付録のラジオを分解し始めたとしても、おそらくICを前にして立往生することになる。ICは「なぜ?」という疑問に答えてくれないブラックボックスだ。仮にICを壊して内部を見る子がいても、内部構造は複雑すぎて自分の疑問への回答を見出すことは難しい。 「なぜ?」と疑問を持っても答えが得られない失望を繰り返すうち、彼らはいつしか疑問を持たないよう自分を抑制し始める。これは「科学」の付録に限らず、身の回りのものにそういった例はいくらでも見られる。日常使う電化製品のしくみが複雑になり過ぎてユーザーの理解をはるかに越えていることが、今の子供の理科離れの一因になっていると思う。 しかし、子供が不器用になったというが、本当だろうか。 ホームセンターやハンズに行くと、材料売場でアルミ板などを選んでいる小学生の姿をしばしば見る。自分のミニ四駆をより速く走らせるため、あれこれ改造の知恵を絞っているのである。子供は興味さえ生じれば、いくらでも何かに打ち込める生物だ。 不器用になったから手作業を簡略化するというのは建設的でない。手作業を簡略化するから不器用になるのだ。 最近になって学研は、かつての「科学」読者を狙って大人向け科学教材シリーズを発売し、人気を博していると新聞で読んだ。こちらのほうは原点に戻って紙コップや輪ゴムなどを使ったわかりやすい構造だそうだ。面白い企画だが、現役の子供にこそそういうわかりやすい物を与えるべきではないのだろうか。 勝手を述べさせてもらえば、多少売れ行きが悪くても「科学」には「なぜ?」に答えられる付録をつけて、子供の理科離れを食い止めていただきたいのである。(00. 7. 20) 【参考文献】「「科学」のふろく」(太田出版) |