1999年に見た映画のいくつかについて、感想およびデータ。
1997 フランス 2h02
監督: フィリップ・アレル
出演: フィリップ・アレル、イザベル・カレー
39才の妻子ある男が22才の女性に惚れて、くどいて、どろぬま、っていう不倫もの。 特徴的なのはカメラ。男の視線で撮っている。「男の視線」っていうのは、 描き方だけではなく、本当に男が見ている映像を撮る。だから主人公の男の姿は 鏡やガラスに映っている時くらいで、ほとんど出て来ない。というわけで、相手の女性の顔と、 会話が中心。
「僕と寝たいんだろう」とストレートに、そしておやじっぽく口説いて行く。女は 妻子ある男にのめり込むことを拒否するが、やっぱりそうなる。そうなったら、もう 独占したくてたまらない。男は離婚するつもりはないわけで、当然どろぬまに。 その過程の女性の表情の変化がよい。 上記のような撮り方なので、女性の独白のような心理描写はないのだが、この表情の 変化で十分見せる。最初はかわいかった女の子、どんどんこわくなる。
女性が見ても男性が見ても、共感し、反発しながらも自分の中に少なからずあるであろう 同じ部分を嫌悪し、憧れもするのではないだろうか(もしかして僕だけ?)。
1999 日本
監督: 北野武
音楽: 久石譲
出演: ビートたけし、関口雄介、岸本加世子
北野武がカンヌに出品した作品であるが、賞を奪りに行ってるって感じで、狙いすぎの感あり。 センチメンタルすぎ、ストーリーも音楽も。 『HANA-BI』では、たけしの絵をえんえんと映していて、ちょっとうっとうしかったけど、 今回は、絵は少なくなったものの、節目のタイトルのような感じで使われている。 その「節目」はいまいちなギャグのコントのタイトルみたいなのなんだけど、 流れを切ってて、えんえんとやっていて、飽きた。暴力を描かず、 『みんなやってるか』で大失敗したギャグと、北野ブルーとは違った画面の雰囲気と、 ということで、北野武の作品の流れでも転機なんだろうけど、だいじょうぶかいな。
1998 日本
監督: 三谷幸喜
出演: 唐沢寿明、西村雅彦、鈴木京香、藤村俊二
三谷の舞台作品の映画化。芝居のうまい人達がやっていて、久しぶりに演劇的芝居を見た感じ。 平凡な主婦の書いた脚本が生のラジオドラマになるんだが、出演者と製作のラジオ局のわがままで、 どんどんストーリーが変えられて行く。生放送ということで、時間的な制約のあるなかを、ばたばたと、 滑稽に、最後はラジオドラマも、映画も「心温まる」ものに。さすがにうまい構成です。
原作がいろんな都合でどんどん変わって行って、オリジナル性は消える。 でも聞いている方はそういう作品だと受け取る。 恐らく、多くの作品、著作に同じようなことがあるのだろう。 ゴーストライターが書いてたり、 編集者が適当に作ってたり、読者はそれを「本物」と受け取る。
1964 日本
監督: 勅使河原宏
脚本: 安部公房
原作: 安部公房
音楽: 武満徹
出演: 岡田英次、岸田今日子
上のデータにあるように、すごい面々である。パリの映画館で見たのだが、いくつか映画を見た中で、 みんな、一番まじめに見ていた。フランスでは、安部公房は人気があるようで、 真剣に見ている。だれも音を立てず、ものを食わず、スタッフロールで席を立たず。
岸田今日子がよい。僕は、今の、おばあちゃんになった岸田今日子の姿しか しらなかった。これは、僕が生まれるよりも前の作品で、彼女も当然、若い。 しかし、不気味である、若いときから。 この不気味さと、岡田英次のハンサムさが、安部公房的不気味不条理世界をうまく再現できている。 放り込まれた日常から逃げようともがきながら、抜け出すことのできない無限世界。 そのうちにどんな世界にも「適応」さ。
1998 フランス
監督: Cedric Kahn
原作: Alberto Moravia
出演: Charles Berling, Sophie Guillemin, Arielle Dombasle
大新人女優(笑)ソフィー・ギユマン のページ
パリにはかわいくておしゃれな娘が多い。街を歩いていると楽しくなる。 (気をつけていないと犬のフンを踏んでしまうが。) しかし、この映画の主演女優Sophie Guilleminはすごい。 新人であるが、良く見つけて来たな、って感じ。かわいくなく、たるんだ身体で、 頭悪そうで、貧乏くさくちぐはぐなファッション、恋愛もコミュニケーションもうまくできないのでsexする、 そういう、なーんも考えてない女ってのを演じているのだか、もともとそうなのか。
なぜかそんな女に惚れてしまった男が、ちゃんと恋愛することを教えようと努力するのだけど、 どうも理解できないようで、やっぱりやっちゃうだけ。そうじゃないだろう!ってがんばるんだけど 結局はうまくいかない。 フランス語だったので、集中力がもたず大事なところで寝てしまったようで、分かれることの決定的な 事件がわからなかったんですが。 程度の差こそあれ、恋愛の非対称性か。