著者:E.T.A.ホフマン
訳:種村季弘
出版社:河出文庫
出版年度:
自動人形、二重人格、狂気をテーマとした幻想文学の古典。
<あらすじ>
主人公ナタナエルは幼少のころ、「夜早く寝ないと
砂男に目をえぐられる」という話を聞かされる。
その恐怖は彼の心の中に深く巣食うことになる。
大学生になったナタナエルは、スパランツァーニ教授の
美しい(とナタナエルだけが思う)娘オリンピアのとりこになるが、
しかし彼女は実は自動人形(オートマトン)であり、
その目はまさに砂男の化身たる男がどこからか
手に入れたものであった。彼は再び砂男の恐怖に堕ちる。
一度は狂気から回復するも、再び砂男の化身の姿を見るや、
狂気の中に塔から飛び降りて死んでしまう。
<感想>
しかし、僕には砂男自体の不気味さをあまり感じなかったのです。
まず砂男の恐さが、幼少期の思い込み、という設定に
現実とは異なるという留保がつけられているようで、
主人公の感じる不気味さを共有できないところから出発
してしまい、最後の方まで主人公の中に入り込めないでいました。
別の世界のできごと。夢オチのよう。この場合は夢設定。
やはりリアルとして描いて欲しいのですね。
南米マジカルリアリズムは、そのあたり、境目の無い
ところがいいのかもしれません。
自動人形オリンピアの美しさは望遠鏡を通して 初めて輝き、肉眼では生気の無い木偶と化してしまう、 という、これまた、モダンのゆがみは素晴らしいものがありましょう。 オリンピアが自動人形であることが世間の周知のところとなってから、 ラストの、ナタナエルが狂気に陥り塔の上から飛び降りて死ぬ ところまではスピード感もあり読んでいて面白いです。
さて、この文庫ではフロイトの『無気味なもの』が カップリングされているのですが、その中でフロイトは 無気味なものとは 「新奇なものでもなければ見知らぬものでもなくて、 心的生活に古くからなじみのあるなにものかであり、 それが抑圧の過程を通じて精神生活から疎外されて しまったもの」としています。 これは幻想文学やホラーを読んでいて、良く感じることであります。 ボルヘスがよくやる、昔の自分、未来の自分と出会うとか、 あるいは、コズミック・ホラーと称されるラヴクラフトなど。
しかし、フロイトは 「文学では、現実世界で起これば無気味と思われることの 多くが無気味ではなく、そして文学には、現実世界には出番の ない無気味な効果を収める可能性がどっさりあるのだ」 と、日常生活で感じる無気味さと空想や本を読んで感じる 無気味さとを区別しており、 そして、無気味さを感じるためには、 「すでに克服された信じるに足らぬものが 果して現実にも生じ得るかどうかの当否をめぐる判断の衝突が不可欠」 であると論じております。 これは、僕が『砂男』に無気味さを感じなかった原因として 納得できるものであります。
また、特にメルヘンのような文学作品においては、 読者はまず作者の設定を疑問無く受け入れるので、 無気味さは感じにくいとしています。 メルヘンとファンタジーの違いというのは、僕はいまいち よくわからないのですが、ファンタジー読みでもある 小野君や片岡君はその点どのように感じるのでしょうか。
このフロイトの分析はけっこういいのですが、『砂男』の 目をえぐられる恐怖を去勢コンプレックスだとしたり、 「神経症の男性たちはよく、「女性の性器が無気味なものに 見えます」と告白したりする。この無気味なものはしかし 人間の子たるものの懐かしい故郷への、つまりだれしもが かつて最初にいた場所への入口である。」 となってしまうのは、やはり、あ〜あ、なところではあります。
最後に、種村季弘の解説があるのですが、 『砂男』を、キリスト教による吸血鬼信仰の抑圧、 しかし、民衆文化の記憶の中から繰り返し表れる吸血鬼表象 の話として読んでいます。 また、美しき自動人形オリンピアについては、 二元論と絡めて論じております。 ゼウスの支配の下に一つであった神々の世界に、 プロメテウスが「人間」をつくり出したという二元論的操作。 超強力二元論者デカルト(ホフマンの1世紀程前)は、精神とは 別のものである肉体を自動人形化しています。
「デカルトの二元論から出発した機械人形熱は、最初の熱狂が 去ると同時に、はやばやと懐疑と幻滅に裏返った。ナタナエル のオリンピアへの熱狂と幻滅は、デカルト的二元論の望遠鏡 で世界を覗いたときの見せかけの昂揚に次ぐ、一世紀遅れで やってきた幻滅の縮小模型だったのである。」
さらに二世紀後、精神を剥奪された自動人形に、再び、 “創発”なる非機械を見出そうという思いを持ち、 コンピュータという現代の望遠鏡で世界を覗いてつくり出された 人工生命という熱狂は、早々と、懐疑と幻滅に裏返っているの でありましょうか。