ヒトの脳は驚異である。これは、人類が社会生活を育む中で生まれ、意識と言語を生んだ。このとき、抽象的な思考と言語が生まれた。数学はこの必然の帰結である。人 間は現実を認識するときに、その仕組みを理にかなったものとして認識する。この中 から、抽象化した認識の装置として論理的な思考が芽生え、これを純化抽象化したも のとして数学が発生した。数学は、文芸、科学技術とともに、人類の生んだ偉大な文 化である。
数学は、古代土地の測量、数の計算などの実用から出発し、純化した体系となって いった。物理学とは密接に関係し、力学、電磁気学そして現代の物理学である相対性 理論や量子力学でも主役を演じている。このなかで20世紀に入って、数学は純化し た知の体系として独自の動きを始め、大いなる飛躍をもたらした。人間の思考の本姓 とも言える、数理的な思考は現実世界と人間の認識を結ぶ要である。
人間は数学的な思考が好きなのである。20世紀における、数学と諸科学との分離、 そして教育制度における数学的思考と他の科目との分離が不幸な事態を生んだ。数学 嫌いが生まれ、教育課程における数学無用論までが唱えられる。
人は数学が好きなのである。しかるに数学嫌いが生まれ、せっかくの人としての能力 の十全の発展を妨げている。いま、この不幸な事態を正していかなければならない。 その一つは、教育である。教育において数学的な思考の面白さを妨げている要因をな くさなければいけない。
もう一つは、純粋数学の自立と、その現実からの逃避である。現実世界では数学的な 思考で体系化されることによりしっかりとした認識が得られるものが多々ある。しか るに、20世紀の数学はその道を捨て、純化した象牙の塔に閉じこもってしまった。 いま、数理科学の必要性が叫ばれているが、道はまだ遠い。
第三は、数学と生命科学である。生命科学は複雑多様な要因の因果的な絡み合いの中 で、複雑極まりないシステムとして機能している。このような現象の解明を助ける数 学的な手法はいまだに確立されていない。生物学と数学の結びつきは、新しい数学の 方法論を必要としている。これは21世紀の科学に対する挑戦である。
いま、数理的な思考法、数理科学が多くの分野で求められている。私は、本講演は数 理科学を求めて苦闘し、またこれを楽しみながら、脳の世界や情報幾何学を構想した 個人的な経験を述べ、これからの数理的な思考法を持つ人材育成に対する期待とした い。