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開発工学 巻頭言(vol.40, No.2, 2020)

デジタルイノベーションをデザインする

現実空間のあらゆる情報がデジタル化され、ネットワークを介してサイバー空間で蓄積・分析され、その結果を現実 空間で活用するサイバーフィジカルシステムが様々な産業や社会に広がっている。サイバーフィジカルシステムでは、 現実空間の情報をサイバー空間に送るためのIoT(Internet of Things)とサイバー空間に蓄積された膨大なデータを 分析するAI(人工知能)が不可欠である。このサイバーフィジカルシステムの普及・浸透が、 100 年に一度の大変革をもたらす。

その本質は、価値を生み出す源泉が現実空間からサイバー空間に移ることによる産業・社会構造変化にある。 いわゆるGAFA に代表されるIT 企業がサイバー空間だけでなく、自動運転やスマートホームなどの現実空間でも パワーを持ち始めているのはこの構造変化によるものである。このような100 年に一度の大変革は、 すべての企業や行政などの組織にとって大きなチャンスであるとともに対応できなければ大きなリスクでもある。 デジタルトランスフォーメーション(DX)は、 チャンスを活かしリスクを避けるために避けられない企業や組織の変革である。

すべての企業や組織にチャンスがあるが困難も多い

DX は、大企業や大きな組織だけでなく、中堅・中小企業にとっても、新しい製品やサービスあるいは業務改善など のイノベーションのチャンスをもたらす。以前であればIT システムの導入には高い専門知識と大きな設備投資が必要 であったが、安価なデバイスや様々なクラウドサービスの普及により、 IT システム導入のハードルは大きく下がっている。 また、グローバル規模の知識の流動化も大きな加速要因である。 たとえば、昔(第二次人工知能ブームのころ)であれば人工知能をビジネスで活用するためには大企業の中央研究所で 専門の研究者を育成する必要があったが、現在では世界中の研究者が最新の研究成果をarXiv やGithub などで公開し、 それを誰でも参照でき、クラウド上の人工知能のツールも誰でも簡単に使うことができる。 また、オープンイノベーションが当たり前になり、自社にない知識リソースを利用しやすい環境も整ってきている。 すなわち、すべての企業や組織にDX によるイノベーションのチャンスがある。

一方、DX がなかなか進まない現実もある。経済産業省でも、そのような課題に対して 「デジタルトランスフォーメーションに向けた研究会」を立ち上げ、2018 年9 月には報告書 「DX レポート〜 IT システム「2025 年の崖」の克服とDX の本格的な展開〜」1)をまとめ、 DX 推進ガイドラインやDX 推進指標を公開してきた。しかし、総務省の通信利用動向調査2)では、 2019 年でIoT・AI 等を導入済/導入予定の企業は2割強という調査結果であり、DX に困難を感じている企業はまだまだ多い。 経済産業省では、2020 年8 月に「デジタルトランスフォーメーションの加速に向けた研究会」を再度立ち上げ、 2020 年12 月には中間報告書3)を取りまとめた。ここでは、様々なステークホルダ間の認識のギャップが、 DX が進まない大きな要因の1 つであり、それを埋めるための具体的な「対話ツール」の必要性が述べられている。

デジタルイノベーションをデザインするための工学的な手法

どのようにDX の困難を乗り越えれば良いのか。DX の成功事例や失敗事例を収集し分析することで、DX のチャンス およびチャンスを活かす方法、困難と困難を克服する方法は、ある程度パターン化可能であると思われる。 そのパターンを整理することで、DX によるチャンスを活かし、困難を克服するためのデザイン手法が提案できる。 我々はこれをデジタルイノベーションデザイン手法と呼んでいる。ここで重要なことは、スティーブ・ジョブズのような 特別な人や限られた経験豊富なICT の専門家だけでなく、中堅・中小企業および非ICT 企業、 さらに地域の行政やNPO などの社会的組織でも使うことのできる手法にすることである。 そのためには、デジタルイノベーションのデザインに必要な視点、チャート(フレームワーク)、デザインの手順を提供し、 個人の暗黙的なスキルに過度に依存することなくデジタルイノベーションのデザインを可能にし、 デザインした結果をステークホルダ間で共通理解できるようにするための手法が求められる。これを「工学的な手法」と呼ぶことにする。

これは、ソフトウェア工学的な発想である。すなわち、ソフトウェア開発も昔は属人的であり、 暗黙的な経験知が必要で「ソフトウェア危機(1960 年代)」が叫ばれていたが、 長年のソフトウェア工学の進歩により、今ではUMLに代表される設計手法や様々な開発ツールを活用し、普通の人で も必要なソフトウェアを簡単に構築できる時代になった。デジタルイノベーションも今までのように属人的な暗黙知で 生み出すのではなく、誰でも手法に基づきデザインできるような環境を作ることで、多くの企業や組織でDX が進まない 現実を解消できるのではないだろうか。前述のDX 推進ガイドラインやDX 推進指標もデザイン手法の1つのフレームワーク と考えることができるし、世界的にもこの分野の研究が近年活発になってきている。具体的には、IoT やAIを活用した ビジネスモデルの分類法やフレームワークなどが提案されている。我々もIoT イノベーションデザイン手法4) を提案しており、「価値設計」、「システム設計」、「戦略設計」、「プロジェクト設計」の4 つのステップと、 各ステップで用いるフレームワークとして、「ビジネスモデル・キャンバス」、「SCAI グラフ」、 「オープン&クローズキャンバス」「プロジェクトFMEA」などを提供している。

対話ツールとしてのデジタルイノベーションデザイン手法

もちろん、手法を使えば必ずイノベーションを実現できるわけではない。高価なゴルフクラブを買ったからといって、 急にゴルフが上達するわけではないのと同じである。手法はあくまでも道具であり、道具を活用するのは人間である。 しかし、DX が進まない大きな原因の1つがステークホルダ間の認識のギャップであるとすれば、 共通の理解を促進する「対話ツール」としての手法の手順とチャートを用いることで、 デジタルイノベーションの「チャンス」と「困難」を見える化し、多くのステークホルダ間で共通認識を持ち、適 切な議論・判断を行うことにより、成功確率を高めることができるのではないだろうか。 特に、デジタルイノベーションは、LED やリチウムイオン電池などの物理・化学的知見に基づくイノベーションとは 大きく異なり、研究室内で試行錯誤を繰り返すだけではだめで、現実のビジネスや社会で実際に使いながら試行錯誤を 繰り返して新しい価値を実現していくアジャイル型のイノベーションである。そのためには、デジタル技術の専門家 だけではないビジネスや社会の多様なステークホルダを巻き込む必要があり、デジタルイノベーションの実現には 「対話ツール」が必要不可欠だと考えている。

今回の特集である「With コロナ時代のデジタル社会変革」 においても、社会の様々なステークホルダ間の対話に基づく変革のデザインが必要であろう。今後、開発を工学的に扱う 日本開発工学会のコミュニティで、ビジネスや社会も巻き込む「開発」といえるデジタルイノベーション を実現するための「工学的手法」の研究がますます加速することを期待する。

参考文献

  1. デジタルトランスフォーメーションに向けた研究会(2018) 『DX レポート 〜 IT システム「2025 年の崖」克服とDX の本格的な展開〜』, 経済産業省. https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/digital_transformation/20180907_report.html
  2. 総務省(2020)『情報通信白書』,総務省. https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/r02.html
  3. デジタルトランスフォーメーションの加速に向けた研究会(2020)『DX レポート2 中間とりまとめ』, 経済産業省. https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/digital_transformation_kasoku/20201228_report.html
  4. 内平直志(2019) 『戦略的IoT マネジメント』, ミネルヴァ書房.

内平研究室