私たちの生活は、すでに文字・音声・映像など、複数の手段を組み合わせた「マルチメディア」と呼ばれるもので溢れている。コンピュータにおけるマルチメディア化も進んでおり、従来扱っていた文字や数字だけではなく、デジタル化された静止画・動画・音声など、様々なメディアを扱えるようになっている。
ただし、コンピュータでマルチメディアを扱うには、文字だけを扱う場合に比べて膨大な量のデータを処理しなければならない。データ処理に時間がかかれば、たとえば画面を表示するのが遅くなるなど、ユーザにとって快適なコンピュータ環境を提供することができない。
 実はマルチメディアデータは、同じような形式のデータが大量に連続するという特徴を持っている。そのためコンピュータの処理は単純で同じような処理を大量に行うことになる。
近年プロセッサの微細化により、コンピュータのデータ処理能力は飛躍的に高まってきた。しかしそのプロセッサの微細化には限界が来つつある。「マルチメディアの処理の大半は、相互に依存関係のない大量のデータ処理です。ですから私のいうプロセッサを簡単に作ることができるようになれば、マルチメディアをもっと手軽に使うことができるでしょう」と語る日比野教授。では、プロセッサの微細化とはどういうことなのか、そして教授の提唱するプロセッサとはどういうものなのか。

 

 コンピュータの性能向上のいちばん大きな技術的要因は何かというと、マイクロプロセッサをいかに小さく作るか、「微細加工」ということである。プロセッサのサイズが半分になれば、動作周波数は2倍に、つまり処理動作が2倍速くなる。また一定の面積に集積できる素子の数も多くなる。プロセッサが小さくなればなるほど、トランジスタのスイッチング時間(入・切する時間)が短くなり、より速い(出力が大きい)集積回路が実現できる。これを比例縮小則という。


 プロセッサはこの理論を基にどんどん性能を上げてきた。しかしあまりに微細化が進むと、次はそれまで無視できるほどの大きさだった配線の抵抗の問題がでてくる。素子のスイッチング時間がいくら短縮できても“配線遅延”の影響を受けることによって、プロセッサの性能は上がらなくなるのである。


 現在この問題を解決するために、各分野でさまざまな試みがなされている。コンピュータアーキテクチャ(※1)によってこの問題の解決にあたる日比野教授は語る。「加工の技術の進歩や新しい材料の採用によって上限レベルが上がる可能性はありますが、それでも限界は必ずくると予想されます。あとはコンピュータの構成上の工夫でこれを打ち破ることはできないか、ということになります」。

 

 自動車の組み立てラインを考えてみてほしい。1台の自動車を組み立てるには、約10時間(600分)必要である。しかし実際のラインは約3分で終わる200種類の行程に細分化されている。つまり自動車は見かけ上3分に1台完成して出てくる。計算機でも同じようにひとつの仕事をいくつかのステージに分けて処理を行う構造がある。これをパイプラインアーキテクチャという。
 しかし自動車組み立てラインの作業は一つひとつが完結しているが、計算処理はそうはいかない。「たとえば前行程の結果を次で使う場合、前の処理が終わるまで次の仕事はできません。この間は仕事がない空っぽの状態で動かすことになる。これを“パイプラインのハザード”と言います」。


例:一つの命令を処理するのに50の行程があり、1行程に0.2ナノ秒かかるとすると、
 (a)(b)それぞれでかかる時間は・・・
 (a)パイプライン処理をしない場合
   50行程×0.2ナノ秒=10ナノ秒(動作周波数: 100MHz)
 (b)パイプライン処理をする場合(10行程を持つ5ステージに分ける)
   10行程×0.2ナノ秒=2ナノ秒(動作周波数: 500MHz)

※ステージ数を増やすと処理能力は上がるがハザードが発生しやすくなる。(次項マルチスレッドパイプライン参照)

 

 パイプラインのハザードを防ぐには、各行程の干渉をなくせばよい。そこでプログラムを独立したn個の流れ(スレッド)に分けて、それぞれ別のn段のパイプラインに担当させるという方法が考えられる。これをマルチスレッドパイプラインプロセッサという。各行程の干渉がないことで、ステージ数を多くすることができる。(※2)  アメリカの企業で製品化された例もあるというが、「現在の市場に出回っているプログラムはシングルスレッド向け。ですから既存のプログラムは使えません」。マルチスレッドパイプライン実現の前にはまだまだ課題が多いのは確かなようだ。しかし「プロセッサのスピードがこれ以上に上がらないということが分かっている今、高性能を求めるにはこの方法しかないでしょう」と、日比野教授は力強く語る。

 

 しかしマルチスレッドパイプラインにも物理的な制限を受けることには変わりない。一つのステージに一つの信号しか存在しない状態では、いずれにしろ限界が見えてくる。そこで日比野研究室が新たに焦点を合わせているのがマルチスレッドウェーブパイプラインという構造である。
ウェーブパイプラインはその名のとおり複数の“波”が一つのパイプラインのステージにあるというもの。前の処理が完全に終わる前にこの次の処理を開始するため、ひとつのステージに複数のデータが存在するアーキテクチャである。
 これまでに非常に高い周波数で動作することが分かっていたが、普通のプロセッサでは扱いにくいとされていた。しかしマルチスレッドと組み合わせることによって、優れたパフォーマンス性を追求できると教授は考える。
「マルチスレッドとウェーブパイプラインを組み合わせると、物理的な性質による周波数の限界を超えてプロセッサを動作させることができます。これを実現させるための、論理設計とレイアウトの問題を同時に解決する設計方法について研究しているところです」。

 

 日比野教授に、こうしたコンピュータアーキテクチャの研究に携わったきっかけを尋ねてみた。
「計算機の研究は、計算機を成り立たせる根本的な技術に着目したものと、計算機をいかに高度に使っていくかの、二つに大別することができます。もちろん技術の上ではどちらも大事なことです。私はもともと計算機の高度な使い方にウェイトを置いた研究に携わっていたのですが、あるとき計算機そのものを作り直すという状況になった際にコンピュータの根本的なところをもっと理解しなければいけないと痛感したのです」。
 計算機の根本のテクノロジーを見つめ、新たなコンピュータアーキテクチャの実現に挑む。日比野研究室がプロセッサの物理的限界を乗り超えたとき、そこにどんな快適なマルチメディア世界が広がるのだろうか。

 



──先生が描く遍在コンピュータ環境というのは、どういうものなのでしょうか?
モバイルや携帯が大流行ですよね。絶対に持ちたくなかったのですけれど、とうとう私も持たされてしまいました(笑)。遍在コンピュータ環境は、これと全く逆のはなし。例えば、私が企業にいた頃は腕時計をはめていませんでした。理由はどこに行っても時計があるから。つまりどこにでも手段があれば、持ち歩く必要はない。コンピュータにも同じことが言えるはずです。
──携帯電話が必要ない環境ということですか?
無線帯域には限界があります。電磁波の性質のために避けられないことです。でも有線の場合は針金を束ねれば独立のチャンネルがいくらでも取れますし、多くの人が同時に通話できるような通信網が作れるのです。でも有線はやはり不便ですよね。そこで“線”がなくてもコミュニケーションの手段がとれて、かつ有線の広いチャンネルを自由に使えないかということを考えています。
──具体的にはどんなことが考えられますか?
たとえば自分が呼び出されていることがわかるようなモノを持っている。そこで何かディスプレイがあるようなものの前に立つと、その相手がぱっと現われる。そんなことが考えられます。いろんなメディアを吸収するような技術をうまく組み合わせれば、こんなことが自由自在にできるようにはるはずです。電話だけでなく画像を送ったり、さまざまな通信ができるわけです。
──ポケットベルのようなものを持つのですか?
同じ原理ですが、ポケベルだと情報は一方通行になりますから、それだけではだめしょうね。ただポケベルの良い点は、個人の位置を追いかけずに、その人を呼び出すことができるというところ。携帯電話やPHSは、実は半径2キロから数100メートルまで個人を追いかけているんです。

──個人の位置情報は分からないけれど呼び出すことはできる、という。
ユビキタスコンピューティングについての論文がアメリカで発表されたのは91年のことです。その考え方は、オフィスにいる人の位置情報を無線システムで常にトレースしていく、つまり行動を常に監視する。システムがその人の行動の意図を類推し、その人用にセットアップして快適な環境を作ろうというものなのです。でも私は個人の行動を追いかけるのはよくないと、思っています。
ウェアラブルコンピュータ(※3)についても、私は疑問に思っています。将来のコンピュータに関してどういうふうに考えるかというのは二つあります。一つはコンピュータをうんと軽量化したり使いやすくして常時身に付けるというもの。もう一つは、自分は何も持たないけれど、手の届くところにいつでも使えるように社会的なインフラが整備されているというものです。私は後者のほうがはるかに快適だと思っています。







(※3) ウェアラブルコンピュータ
 Wearable computer 90年代中頃にマサチューセッツ工科大学で最初に提唱された概念で、超小型コンピュータを身に付けて使用するというもの。ヘッドマウントディスプレイ付きのパソコンや、デジタルカメラ・PDA(携帯端末)の機能を持った腕時計など、製品化されたものもある。
 
  情報科学研究科 教授
日比野 靖(ひびの やすし)
1945生 東京工業大学工学士(1970)、東京工業大学工学修士(1972)、東京工業大学博士(工学)(1995)
<略歴> 日本電信電話公社武蔵野電気通信研究所研究員(1972)、日本電信電話株式会社基礎研究所情報通信基礎研究部第二研究室長(1986)、同社ヒューマンインタフェース研究所主幹研究員(1987)、北陸先端科学技術大学院大学(1993-)
<専門> コンピュータアーキテクチャ、記号処理システム、マルチメディア通信


「携帯電話はもったいなくてなかなか使えませんでした。贅沢なものだっていう認識があるんですよ。どんなにハイレベルな通信技術を使っているか、よく知っていますから。」