ここで述べる「その人らしさ」とは,独自の価値観,すなわち「他のモノと
のインタラクションにおける独自のやり方」のことを意味しています.この
ような価値観は,ある集団に帰属することでその集団の価値観を「共有」す
るか,あるいは異なる価値観を持つ他者とのインタラクションの際に生じる
「摩擦」によって形作られていきます.したがって,自己のエゴとして外界
から切り離される主観とは違って,その人がどのような経験を積んできたか
という個人の歴史そのものでもあるわけです.
ある集団に帰属することで,人は集団固有の「モノの見方」を身に付けてい
きます.そこで人は,一つの価値観を守ることの安堵感に甘えてしまい,一
度身に付けた自分らしさを「壊す」ことに怯えてしまいます.しかし,好む
好まざるとに関わらず,人が流動性の全くない一つの集団に帰属し続けるこ
とは事実上あり得ないため,多様な価値観との摩擦を多く経験しながら,そ
の人らしさを形作っていくわけです.中学生くらいまでは,周囲が作り上げ
た環境に責任を転嫁することも出来ましたが,高校生・大学生ともなれば集
団への帰属についてある程度選択の権利を得ているため,個の価値観と帰属
する集団の価値観とを天秤にかけ,その選択について自ら慮らなければなり
ません.それにもかかわらず,容易に自らの価値観を押し込めてしまい,そ
の人らしさを特定の集団の中に埋没させてしまう人が少なくありません.
特に日本人は身内意識が高く,個人それ自身よりも集団としての和を尊ぶと
言われています.欧米諸国のビジネスマンが携行している名刺は,エンジニ
アとかコンピュータプログラマーといった風に職種が記載されているものが
普通ですが,一方で日本のビジネスマンの名刺には,たいてい会社名や所属
部課名しか記載されておらず,本人がどのような仕事にたずさわっているか
をその名刺から伺うことはできません.就職活動期においても,「何がした
いか」ではなく,「どこに入りたいか」で就職先を決定する人が少なくない
ため,日本人は「就職」しているというよりも,むしろ「就社」しているの
ではないか,と皮肉られたりもしています.日本人にとって個のアイデンテ
ィティの確立が,「いずれの集団に帰属しているか」に深く依存しているた
め,なおさら集団帰属に執着してしまうのかも知れませんが,このような皮
肉が実は的を射ていて,簡潔に日本人の特性を表しているのかも知れません.
人の「モノの見方」が,帰属する集団の「モノの見方」に依拠するのは当然
ですが,「その人らしさ」としての「モノの見方」は,それまでに積み重ね
てきた個人の歴史そのものなのですから,十把一絡げに同じものであるはず
はありません.今あなたは,自分らしい「モノの見方」で,あなたが「見た
いモノ」を見ることが出来ていますか?自分が所属している学部,学科,分
野,理系/文系の別,といったカテゴリーが持つアイデンティティに責任を
転嫁してはいませんか?
もちろん,多様な「モノの見方」を経験した人が必ずしも優れているとは限
りませんが,あなた自身の「モノの見方」を,今のあなたが見に付けている
「モノの見方」自身では決して評価することが出来ないこともまた事実です.
「あなたらしさ」を再発見するために,今のあなたとは違う「モノの見方」
を体験してみてはいかがでしょうか?それは「あなたらしさ」を一度「壊す」
ことになるでしょう.わたしたちが発足させたBACは,そんな「摩擦」を肌
で感じ,「その人らしさ」を見つけるための場を創造したかったのです.実
際にいろいろな人と出会い,インタラクションすることではじめてわたした
ち自身の存在を感じることが出来るのであり,それまでわたしたちの存在は.
無限の広がりを秘めた単なる「可能性」にしか過ぎないのかも知れません.
個性それ自体はもともと可能性であり,周囲の状況とのインタラクションの
中でのみ実現される.この交渉の過程において,独自性の要素を含む生まれ
ながらの能力が変容され自己になってゆく.さらに,抵抗との出会いを通じ
て自己の性質は発見される.自己は環境とのインタラクションを通じて形成
され意識化される.(ジョン・デューイ,『経験としての芸術』)