BAC2000へのご招待-ご挨拶にかえて

六井 淳

BAC2000実行委員長(主査)
北陸先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士後期課程2年

塩瀬 隆之

BAC2000副実行委員長(副査)
京都大学工学研究科精密工学専攻博士後期課程2年
日本学術振興会特別研究員

 

BAC2000の目指すもの

     BAC2000実行委員長  六井 淳
    (北陸先端科学技術大学院大学)
          
幼年期の夏の終わり、蜩の声を聞きながら蟻の行列を黙って何時間も眺めた
経験のある人は少なくないでしょう。夕暮れまで外で遊び、気が付くと辺り
は暗く、親に叱られたことはありませんか?そこには共通の「好奇心」と「
夢中」があったはずです。大学に入学し、自分は何者かと問うた時に、純粋
に「好奇心」と「夢中」を抱え込んで学生時代を過ごした人、あるいは過ご
せた人はどれだけいるのでしょうか?日々の勉学、あるいはアルバイトに追
われ、気が付くと就職。現実、このパターンにはまりこみ、入学当初に抱い
ていた「好奇心」と「夢中」、そして、それが織り成す「希望」は柵の中に
しまい込まれているのではないでしょうか?

この研究会は野に解き放ち、忘れていた自由な心をもう一度見直すため、発 足されました。研究に取り組む学生誰もが、最初にぶつかる問題が自分の取 り組むべき研究に対する自分自身との問答である。本当にこの研究で良かっ たのか?こういうことがやりたかったのか?という問いをぶつけながら、得 心していくプロセスを研究と勘違いしていることが多い。それは研究室の方 針であったり、抱いていた理想とのギャップであったり、様々な要因が考え られる。だが、どれも共通して言えることは分野という檻の中で、あたかも 野生を諦めた猛獣のように妥協していく様が現在の日本の学生誰もが抱える 問題ではないだろうか?

物理学者アインシュタインは学部時代は数学者で、物理学を本職とするまで 理学という閉じた空間ではあるが、2方向の視点を持っていた。レオナルド ・ダ・ヴィンチに至っては芸術のみならず、建築、数学とあらゆる分野に精 通していた。これは知的好奇心の成せる技であり、没頭するエネルギーの集 大成でもある。

芸術家は聞えも良く、自由で奔放な人生を送っているかに見えるが、生産性 や社会性という意味において極めて弱い存在である。逆にエンジニアという と社会機構に特化したイメージが強いが、自身の人生での自由という意味で は芸術家には理解できない柵があることだろう。相反する概念が刺激し合う ことで、同じ分野の人達の井戸端会議では得られない、互いの良点、自己の 悪点の発見があることだろう。互いの領域を棲み分けて、境界を作るのでは なく、共存することでのみ得られる変化のプロセスを我々は研究と呼びたい。

現代はスペシャリストの時代である。そのため学生時代から詰め込み型の研 究、あるいは教育体制が確立している。学生自身も詰め込み型研究の中で自 己の保身を保つため、先生の指示通りの研究を行い、成果を上げることに没 頭する。これにより、就職には困らないかもしれないが、満足は得られない だろうし、言い様もない虚を抱えて長い人生を歩むことになるだろう。そこ にはある種の割り切りしかないのである。様々な分野に出会い、自分の研究 や価値観と照らし合わせ、何かを作り上げた者には絶対的満足があることだ ろう。専心した人間と夢中になった人間は本質的に比べようもない差がある のである。そして、後者には時代に良く追従するのではなく、次世代を切り 開く可能性がある。

柔軟な思考によって、様々な価値観を肯定的に観察し、その上で内包すべき 価値観を選別する能力を磨くことは何の拘束もない学生時代にしかできない ことである。自分で考え、例え客観性に多少乏しくとも、それが自己創発の 結晶ならば、後の人生において、大きな財産として自身の能力として残るこ とだろう。野心会は切り開くパイオニアに少しでも役に立てるよう様々な分 野の学生を境界を設けることなく集め、学生主体の議論によって各個の大き な変化を与えることを目標としています。トップダウンな価値観はここには 存在しません。テーマは無限大です。

 

「あなたらしさ」をみつけるために,今の「あなた」を壊してみませんか?

     BAC2000副実行委員長  塩瀬 隆之
              (京都大学)
          

ここで述べる「その人らしさ」とは,独自の価値観,すなわち「他のモノと のインタラクションにおける独自のやり方」のことを意味しています.この ような価値観は,ある集団に帰属することでその集団の価値観を「共有」す るか,あるいは異なる価値観を持つ他者とのインタラクションの際に生じる 「摩擦」によって形作られていきます.したがって,自己のエゴとして外界 から切り離される主観とは違って,その人がどのような経験を積んできたか という個人の歴史そのものでもあるわけです.

ある集団に帰属することで,人は集団固有の「モノの見方」を身に付けてい きます.そこで人は,一つの価値観を守ることの安堵感に甘えてしまい,一 度身に付けた自分らしさを「壊す」ことに怯えてしまいます.しかし,好む 好まざるとに関わらず,人が流動性の全くない一つの集団に帰属し続けるこ とは事実上あり得ないため,多様な価値観との摩擦を多く経験しながら,そ の人らしさを形作っていくわけです.中学生くらいまでは,周囲が作り上げ た環境に責任を転嫁することも出来ましたが,高校生・大学生ともなれば集 団への帰属についてある程度選択の権利を得ているため,個の価値観と帰属 する集団の価値観とを天秤にかけ,その選択について自ら慮らなければなり ません.それにもかかわらず,容易に自らの価値観を押し込めてしまい,そ の人らしさを特定の集団の中に埋没させてしまう人が少なくありません.

特に日本人は身内意識が高く,個人それ自身よりも集団としての和を尊ぶと 言われています.欧米諸国のビジネスマンが携行している名刺は,エンジニ アとかコンピュータプログラマーといった風に職種が記載されているものが 普通ですが,一方で日本のビジネスマンの名刺には,たいてい会社名や所属 部課名しか記載されておらず,本人がどのような仕事にたずさわっているか をその名刺から伺うことはできません.就職活動期においても,「何がした いか」ではなく,「どこに入りたいか」で就職先を決定する人が少なくない ため,日本人は「就職」しているというよりも,むしろ「就社」しているの ではないか,と皮肉られたりもしています.日本人にとって個のアイデンテ ィティの確立が,「いずれの集団に帰属しているか」に深く依存しているた め,なおさら集団帰属に執着してしまうのかも知れませんが,このような皮 肉が実は的を射ていて,簡潔に日本人の特性を表しているのかも知れません.

人の「モノの見方」が,帰属する集団の「モノの見方」に依拠するのは当然 ですが,「その人らしさ」としての「モノの見方」は,それまでに積み重ね てきた個人の歴史そのものなのですから,十把一絡げに同じものであるはず はありません.今あなたは,自分らしい「モノの見方」で,あなたが「見た いモノ」を見ることが出来ていますか?自分が所属している学部,学科,分 野,理系/文系の別,といったカテゴリーが持つアイデンティティに責任を 転嫁してはいませんか?

もちろん,多様な「モノの見方」を経験した人が必ずしも優れているとは限 りませんが,あなた自身の「モノの見方」を,今のあなたが見に付けている 「モノの見方」自身では決して評価することが出来ないこともまた事実です. 「あなたらしさ」を再発見するために,今のあなたとは違う「モノの見方」 を体験してみてはいかがでしょうか?それは「あなたらしさ」を一度「壊す」 ことになるでしょう.わたしたちが発足させたBACは,そんな「摩擦」を肌 で感じ,「その人らしさ」を見つけるための場を創造したかったのです.実 際にいろいろな人と出会い,インタラクションすることではじめてわたした ち自身の存在を感じることが出来るのであり,それまでわたしたちの存在は. 無限の広がりを秘めた単なる「可能性」にしか過ぎないのかも知れません.

個性それ自体はもともと可能性であり,周囲の状況とのインタラクションの 中でのみ実現される.この交渉の過程において,独自性の要素を含む生まれ ながらの能力が変容され自己になってゆく.さらに,抵抗との出会いを通じ て自己の性質は発見される.自己は環境とのインタラクションを通じて形成 され意識化される.(ジョン・デューイ,『経験としての芸術』)

 


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Last modified: Wed Dec 8 07:24:55 JST 1999