Message_Ecology(Y.Hayashi)

ネットワーク生態学からのメッセージ

過去300年間の世界人口の増加と絶滅した哺乳類や鳥類の数をみれば, 「ヒトは殖え, それ以外の動物は亡び, 自然の破滅は目をおおうものがある.」 自然環境を破壊し, 労働力と資源をむさぼる国際経済においても, 富める国と貧しい国の人々に 同様な構図 が当てはまるのではないだろうか. そこには, 動植物の食物連鎖や生息分布のみならず, 経済活動の産業連関や取引関係, インターネット上のモールなど, 日々活動を続けるネットワークの生態系が形成されている. ネットワークとはつながりを促すものであるが, その構造や中心性(集約化の強さ)によって, 物資や富, 機会の偏りが起りうる. ときには, 何かを破滅させる程の.

「日本人はもともと自然を愛する国民である. 自然の開発から征服へと進んできた西欧と異なり, 自然をありのままの姿で眺めてきたのがわれわれの祖先である. 山水の美と, 花鳥風月はつねに心の友であった. 日本人に限らず, とくに東洋文明の社会のなかでは, 人はあくまでも自然の一部であり, 自然との調和がそのまま生活の智慧につながってきた.」

ところが現在, 日本人の大半(自分も含めて)は, 経済至上主義を何の疑問もなく受け入れ, 企業経営的な私利私欲の拡大を第一議的に考えるようになってしまった. 環境ビジネスやインターネットとて例外ではない. もちろん, 作業的な無駄をなくしたり, 便利になること, 切磋琢磨した良質な製品や技術などで新しい価値を提供した見返りに利益を得ること自体は悪いことではないし, 食糧やエネルギー資源を消費しなければ生活すら出来ないが, それが将来的に修復不可能なほど大きな犠牲の上で成り立っているとしたら, 我々は根本的な考えを改めないといけないのだろう. 目に見えるものの利便性や効率が, いかに多くの目に見えないものの負担と犠牲のうえに成り立っていることか, しかも強者を擁護する不公正な政策がはたして市場原理と言えるのか ?(資本原理ではあろうが)

マネーゲームに終始する限り, もはや限界に近い効率化や利益向上の呪縛の中で, 誰かが勝つには誰かは負けるので, 倒産, リストラ, 失業 などが必然的に生まれ, コストのかかる環境への配慮もイメージ戦略程度にならざるを得ない. しかも, コンピュータネットワーク上の 法外な投機的取引がそれらを加速している (投資家/株主の為により素早く大きな利益が望まれ, 敗者復活の時間的余裕がなくなって, 再起できない点は環境破壊とも類似する). 投資のみならず, マーケットやコミュニティの活動においても, コンピュータネットワークは既にライフライン的な存在である. 但し, 所詮道具は使い方次第で, 問題なのは経済システムそのもの(及び人類が未経験の破壊スピード)であるが, 経済活動を一時的ですら停めることはできないので, 併存した代替システムが必要となる. しかも, 問題は自然環境の破壊だけではない. 地方都市のドーナツ化現象 (郊外大型店舗の目まぐるしい立地と撤退による駅前中心街の衰退) も富の集中による深刻な荒廃化を象徴するものである. 国際社会から国家, 地方都市, 町や村に到るまで, それぞれの規模で同様な構図がみられる. 自分自身, 経済の専門家ではないからこそ, 対処療法では済まない根本的な経済システムの打開策として, ネットワークコミュニティと地域経済の活性化が重要な鍵を握ることに素直に共感できるのかも知れない.

マネーゲームによって, 発展途上国の資源(身近なレベルでは, 地方都市の就業数や地域の若年労働力)を枯渇させ, 著しく偏った富の配分をもたらし, 貧しくとも生きる為に殺人や犯罪を多発させる荒廃した社会は, (冷淡な億万長者以外)我々人類すらも望んでいるとは思えないが, 現状の過度な競争原理のもとで失業の危機にさらされた毎日の中では, それらに気づくことすら難しい. 極端な富の集中は, 自然環境も商業圏などの生活環境も破壊していくことを, 既に我々は目の当りしているのに, 個々の稼ぎの悪いのがいけないと考えてしまう. しかし, 活性化ではなく廃虚化するような競争が, 望ましい淘汰(市場原理)なのだろうか?

一方, 事務効率化の枠を越え, 教育研究においても (序列化や統廃合, 任期制などを強いる)競争至上主義を善とする大学とて, もはや同じ土壌に乗りつつあることは, 企業経験を有するものとして強く感じる. いやむしろ, 利益など数値化できる明確な評価指標がない分, 権威に牛耳られる危険性がある. 本来, 人や叡知(新原理や技術)を育てるということは, 効率や競争だけでは語れないにも関わらず, 権威主義や短絡的な評価が幅をきかせてしまう. これを, 少子化対策や教育研究の社会的貢献と混同してはいけない. 努力しない個々の不適格者の整理は, 有名校のブランドを持たない大学組織ごとのscrap & buildとは全く意味が違う(大型店舗の進出によって, 劣悪な個々の商店のみならず商店街全体が大打撃を受けることに対応). まともな研究者は, 例え小さなことだとしても世界初の発明発見を日々競っているし, 結果的に敗者となっても高度な専門的知識を有する者が失業するよりも, 技術の普及や啓蒙活動に取り組んだ方が社会への貢献度が大きい. そもそも1つの成功のためには無数の失敗が必要である. 研究開発の実務的人材に乏しい大学で (競争に勝てるよう業績を稼くため)失敗を恐れていては, 創造的な発明や技術開発など出来る訳がない. せいぜい, 企業の後追い事例を学芸会的に示すことが関の山だろう. しかも, 人材の流動性が機会の増大によるものでなければ, 投棄的取引と同様な不安の中で, 短絡的な活動を助長してしまう. 多くの不正行為も, 地位や組織(企業や大学等における所属部門)を守るために良かれと判断してしたことを思い出そう.

「科学と信念とを一体に結びつけて, 自然を守り, その中から人間の価値を見い出してゆくのが生態学ecologyの精神だと私は思っている. これも独りよがりのegologyなのであろうか?」

精神論や解釈に拘るよりも, まずは現状分析と問題把握から手がけるべきであろう. その際, 表の顔である自然環境や商業圏の破壊状況の実態調査や今後の被害予測(シミュレーション解析)はもちろん重要であるが, 裏の顔としてより根深く影響力が大きい コンピュータネットワーク上の経済活動や, 地場の立場で資源を守る自律した地域経済, そうした社会セクターの活力と効果的なデザイン原理の解明 に焦点をあてることこそ, ネットワーク生態学の主要課題ではないかと考えている.


注: 「」は生態学と拡散, 大久保 明 著, 1975, 筑紫書館より引用.

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